日記20200815

昨晩突発的にやったインスタライブのなかで、最近読んだ本として村井理子『兄の終い』を紹介した。以下、出版社サイトの内容紹介。

警察署からの電話で兄の死を知った。小学生の彼の息子が第一発見者だった。周りに迷惑ばかりかける人だった。離婚して7年。体を壊し、職を失い、貧困から這いあがることなく死んだその人を弔うために、元妻、息子、妹である私が集まった。怒り、泣き、ちょっと笑った5日間の実話。

「兄」と「私」が決して円満な中ではなかったというところが個人的に刺さった。さんざん迷惑をかけられた兄を、それでも弔うということ。「兄にさんざん迷惑をかけられた」「なぜ兄は50代で死ななければならなかったのか」。後始末に奔走するなかで頭のなかにぐるぐると去来する思いは、ひとつひとつを取り出すと矛盾していなくもない。でもまさに自分も、去年父が(この「兄」と近い年齢で)亡くなったときに同じようなことを思った。肉親が亡くなったことが「悲しい」のではなく、それよりも何十年も続いてきたある時間の連続が突然途切れ、すぽっと消えてしまうことへの困惑がある。

この「兄」と「私」の関係同様、自分も父がそれほど好きではなかった。でも、村井さんが「こんなことになるのなら、あの人に優しい言葉をかけていればよかった」と書く気持ちは痛いほどよくわかる。それは一見後悔に似ているけどそうではない。亡くなった人はもうこの世に新たな痕跡を残さない。それまでの痕跡を誰かが覚えておき、ときおり視線を向けなければ、その人は誰からも視線を向けられなくなる。それが本当の死であり、本当の意味でいなくなるということだ。その恐ろしい、寂しい無のなかに落ち込むほどに、その人は悪いひとだったのだろうか? そして無に落ち込ませないためにその人を覚えておけるのは、いまや肉親である自分(たち)しかいないということ。だから弔いというのは、愛情や仁義?というよりも、尊厳や恐怖のために行うものなのだと思う。

そんな感じで、生きてるときは1秒も父親のことを考えたことなかったのに、彼が亡くなってからはそれなりによく彼(がいたということ)について考えてしまっている。さすがに去年と比べると、こんな風に文章を書ける程度には対象化されてきてもいるが。そういえば今日、お盆ということもあって『盆の国』というマンガを読んだ。

ここで描かれているような霊的な表象や弔いのモチーフについても、まあわかるな〜という感じ。時代が変わり、形式が変わっていったとしても、型は残り続けるんでしょうね。明日は、自分が維持継承するかどうかわからない古き形式としての墓参りにひとりで行ってきます。



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