遠いようで近いもの【合気道と野生の思考】
第8章は「再び見出された時」と題して少し趣きが変わり過去の未開人研究への批評がメインになっていく。
章題の「再び見出された時」はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』第七篇「見出された時」に由来している。
作中でまったく別の方向だと思われていたふたつの散歩コース「スワン家側」と「ゲルトマン側」は実はある所で合流する近道で繋がっていたことがわかるというエピソードに由来しているのだろう。たぶん。
トーテミズムからも文明と未開が意外な近道で繋がっているから「再び見出された」というわけだ。
供犠は聖杯戦争
トーテミズムを未開人の宗教的なものだと思いこんで研究してしまったことが、これまでの研究の間違いの原因だとされている。
トーテミズムとはある部族のひとつの宗教ではなく、人類全体の傾向だ。
そんな批判の中でも儀礼と供犠の違いについての意見が面白い。
トーテミズムの儀礼は各胞族や氏族がなくてはならない存在だということを再確認するために行われ、供犠は人間のまったく別の性質だという。
供犠というのはデュルケームが「力の拡散」としていたように、呪の藁人形に相手の髪の毛を入れて痛めつければ相手が苦しむだろうというような、人の考え方からきているのだそうだ。
神に生贄を捧げれば対価や赦しを得られるだろうという考えが供犠。つまり、聖杯戦争ってこと。
聖なるものとは何か?
トーテミズムとして研究されたオーストラリアの部族には「チューリンガ」と呼ばれる聖なる品物がある。
それは色を塗った模様のある木片だったり、紙切れだったり、石ころで、これを代々子孫に受け継いでいく。
こんなものを「聖なるもの」だと思うのは未開の証拠だとすら思われていた。
しかし、実際には西洋人でも初期の聖書の1ページなんかを神聖視するし、戸籍は代々受け継いできたものだし、お金や証券や戸籍謄本だって紙切れでしかない。
聖書や古書の原本が失われたら、どんなにコピーをとってあっても喪失感がある。
それが人間にとっての「聖なるもの」なのだ。
過去と現在をつなぐもの、先祖と子孫が同じ肉体、同じ経験をしたことを触れて感じることのできる「もの」。
聖性と合気道
現代は電子化によって、手触りのある神話が失われているのかも知れない。
未開人にとって故郷の景色は神話の一部なんだそうだ。
目に見える山や池はかつて祖先が生み出したものなのだという。
そういう風に言われると古事記に思い至る。
日本に古事記にゆかりのある地は無数にあるし、それこそが神と一体、合気道の目指す境地である「神人合一」のひとつの姿なんじゃないだろうか?
そうした神話を自分の身体でも体現することが合気道だ。
オマケ:火と水の神話
『野生の思考』で紹介されている未開人の神話もまた神道とも同じようなルーツがあるのかも。
火と水の融合は火水を意味する。
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