見出し画像

「価値」があるものとは何かについて遊戯王と合気道で考えてみた

おれの世代はもう完全なるおじさん世代だが、それと同時に最初の『遊戯王』を味わった世代でもある。

今やカードゲームとして一世を風靡している遊戯王だが、当時はイカれたやつらが負けたらとんでもない罰ゲームをくらうというマンガだった。

昔と今の遊戯王がどう変わってしまったのかは、実はマンガのワンシーンからわかってしまう。

ゲームには何を賭けるべきか?

先に問題を出す。

お互いに相手を倒したいと思っている者同士がギャンブルをする時に、残念ながらあなたには掛け金が足りない。

そういう時、どうする?初期の遊戯王での答えはシンプルだ。

高橋和希「遊戯王」より

答え
「命」

足りない分は命で埋め合わせればいい。

この思想の下、わりとナチュラルに遊戯は命をかけてゲームに挑む。

しかし、これは平成の時代の価値観であり、令和の遊戯王はどうなってしまったのかを見てみよう。

高橋和希「遊戯王カラー版」より

令和の答え
X「命」 〇「カード全て」

現代社会電子書籍の遊戯王は命など賭けない。

カードの方が命よりも重いからだ。

時代の変化

昔は「カードゲームに命を賭けるなんて……!?」という時代だったけれど、今や命を賭けても別に違和感はないレベルになってしまった。

なんといっても価格だ。

遊戯王カードの最高額はなんと10億、ポケモンカードでも6億、マジック・ザ・ギャザリングでは3億などと言われているくらいだから、恐ろしい話である。

現実がもはやマンガを追い越すほどカードに価値を与えてしまったと言うわけだ。

現代なら命なんかよりカードを全て賭けて貰った方がありがたいだろう。

なぜそうなったのか?

今の遊戯王があるのは、ある意味ではかつて遊戯王がまったくの無価値だった時代にプライドだけを賭けて勝負していた世代がいたからだろう。

例えば今ではかなり人気になってきているeスポーツの格闘ゲームだって、もともとはゲーセンで金を払って遊ぶだけのものだった。

それに必死になってる人間がプライドを賭けて戦い続けた結果、今はその戦いを金を払ってでも観たいという人が出てくる。

昔のホビーとタイアップしたマンガなんてのはだいたいオモチャが世界の命運を左右するほどの大事になって、それに命を賭けるというストーリーだった。

子供向けのカードゲームマンガですら「負けたら死ぬ」

必死になるもの

人が必死になるものというのはそれだけで価値がある。

むしろ「価値」というのは必死の中に生まれるのではないだろうか?

どんなに格闘ゲームがうまくても、カードゲームが強くてもそこには何の価値もない。いずれは辞める時が来て昔は良かったなどと語るようになる。

だが、それでもいいから今は勝ちたいと必死だった者達の積み重なった屍の上に「価値」は産まれるのだ。

必死になったとしても待っているのは死のみだが、それでも構わないと思う人間が多ければ多いほど、そこには金には換えられないほどの価値が生まれる。

命粗末に
(福本伸行『賭博黙示録カイジ』より)

この世にはほとんど価値があるとは思えないようなブランド品や絵画や音楽や漫画が存在するけれど、それに物凄い金額を払う人がいるのはそれが必死の上に成り立っているからだと思う。

令和の遊戯王が命を賭けなくなってしまった理由はわからないけれど、やっぱり命ってのは賭けてこそなんだろう。

たぶんどの分野にも必死に「命を賭けたバカ」がいて、その存在が一つの分野を価値あるものにしていく。

そしてその存在が忘れられていくとそもそも一体に何に価値があったのかもわからなくなっていってしまうんじゃないだろうか?

だからこそ何に命を賭けていたのか?は知っておいた方がいいし、大事にしたほうがいい。

マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?