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塩田剛三と養神館合気道の歴史

養神館合気道といえば言わずと知れた塩田剛三がつくった植芝盛平が大東流を名乗っていた時代からの流れを汲む流派だけど、意外とその組織の話は知られてない。

調べてみると合気道開祖も変わった人生を送っていたけれど、塩田剛三はまた別の意味でウソみたいな人生を送ったようだ。

養神館合気道の歴史や稽古内容を知ってみると、植芝盛平の影響も垣間見える。ある意味では戦前の植芝盛平を知っているからこその養神館の形があるのだと思う。

ちなみに調べたとはいえ養神館については門外漢なので、何か情報があればぜひ教えて欲しい。

養神館の由来は塩田剛三の母方の祖父・加藤咄堂が『根菜譚』から取る
「守愚不移志 黙々養其神」
「愚をまもり 志をうつさず もくもくとその神(心)をやしなう」

合気道人生

養神館の由来1915

1915 大正4年

 9月9日
塩田剛(後の剛三)、小児科医師・塩田清一の次男として誕生
Wikipedia塩田剛三

1922 大正11年

塩田剛、四谷第六小学校入学
低学年の頃は病弱でベッドにいることが多かったと語る
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

1925 大正14年

塩田清一、自宅医院の一部を改装し青少年育成のための柔剣道場「養神館(塩田道場)」を開館。柔道の指導は大沼環、剣道は椎名八重蔵が担当、後の台湾剣道範士
塩田清一氏・大沼環・塩田剛三氏の3つの「養神館道場」

剛三は小学生の頃は剣道、中学に入ってから柔道を習ったと語る
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

パプチャップ将軍の次男ガンジョルジャップ(韓紹約)が陸軍士官学校に入学、塩田家から通っていた
(森川哲郎編:武道日本(上)1964年3月25日)

塩田清一は国士として知られており、畑俊六、羽田英太郎、東条英機、加藤友三郎、清浦奎吾、小磯国昭、後藤新平、頭山満、渋沢栄一、渋沢敬三、馬越恭平、大倉喜八郎といった各界の大物と交流があった
この内、小磯国昭は1912年に粛親王を擁して行われた第一次満蒙独立運動に関わり、計画は日本政府によって中止させられ頓挫
その繋がりから塩田清一も関わりがあり、粛親王(清の皇族)である愛新覚羅善耆あいしんかくらぜんき愛新覚羅溥儀あいしんかくらふぎやその一族である醇親王じゅんしんのうなどと関わりがあり、パプチャップ将軍の次男ガンジョルジャップ(韓紹約)、三男ジョンジョルジャップ(田中正)、妹ドルヒチチク(田中顕子)を塩田家に引き取って匿っており、剛三を後にドルヒチチクと結婚して王族とするという目論見があったという

(森川哲郎編:武道日本(上)1964年3月25日p185)(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

パプチャップ一族について
パプチャップ将軍の長男は清朝の皇族である愛新覺羅顯㺭あいしんかくら けんしこと川島芳子と1927年に結婚、清朝の皇族との血縁関係にあったため、ここに剛三を加えたいという思惑があったのかも知れない

1926 昭和元年

塩田剛三、健康になり朝四時から21頭の犬の散歩で代々木を走り回り学校に通う。男の使用人も11名いたとのことなので裕福さが伺える
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

1928 昭和3年

塩田剛三、東京府立第六中学校(現在の東京都立新宿高等学校)に入学、柔道を選択し養神館での稽古から負けなしだった
塩田清一氏・大沼環・塩田剛三氏の3つの「養神館道場」

府立六中は陸海軍の学校入学率が日本一の中学校だった

(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

同級生には愛新覚羅憲客の弟・愛新覚羅憲東(艾克)がおり、中学校校長・阿部宗高に塩田清一を紹介され共に養神館で柔道の稽古をした
塩田家では宴会が多く、阿部宗高、塩谷温や愛新覚羅家の面々も集まったという
(「追悼・塩田剛三」)

愛新覚羅家について
中華圏最後の皇帝、ラストエンペラーとして知られる愛新覚羅家溥儀を輩出した一族、当時は政治情勢などから日本で生活している一族が多く、日本語も堪能な人が多かった。今も日本に末裔がいて眼科医などをやっていたりする

1929 昭和4年

塩田剛三、中二で休学届を出し1年休学
この頃に陸軍幼年学校に入学するため数学と国語の家庭教師がついて1日12~13時間勉強
陸軍幼年学校には父のコネから補欠入学を打診されたが断り六中に復学、高橋幹夫と同級生になる
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

1930 昭和5年

白田林二郎が植芝道場に入門

1931 昭和6年

4月
植芝盛平は軍部の要請を受け、陸軍戸山学校・憲兵学校・中野学校・海軍大学校などで指導をはじめる

植芝盛平との修行時代1932

1932 昭和7年

府立六中校長・阿部宗高、朝松陰神社に参拝し毎朝神社を掃除していた国越孝子と出会い、合気術を知る
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

国越孝子
植芝盛平の弟子、塩田剛三より1年ほど前に入門
『武道練習』の挿絵などを手掛ける

 5月23日
塩田剛三、阿部校長から植芝盛平を知り道場へ訪問、演武後ヤラセだと思ったがかかってこいと言われたので柔道をすると見せかけてキンタマを蹴り上げに行った所をどうやったのかわからないまま投げ飛ばされ入門
当時必要だった2名の保証人は父親と校長先生
(植芝盛平と合気道1)(森川哲郎編:武道日本(上)1964年3月25日p186-187)

朝5時から夜9時まで稽古は一日中行われていたという
この時期には剣道の猛者・中倉清も植芝家の養子になる
赤沢善三郎、米川成美、星哲臣、杉野嘉男などが皇武館に入門

入門当時の植芝道場は20名以上の門弟がいたが、父からの経済的な援助により月の半分を関西方面で指導していた盛平のお供をすることができ、より長い時間接することが可能だったという(合気道の楽しみ方p6)
また、府立六中の校長・阿部宗高は清一の計画を支持していたので剛三を盛平に紹介し、拓大に行く事を条件に中学校への通学を免除され、各界の一流の下で合気術・馬術・自動車・料理などを学んだ(森川哲郎編:武道日本(上)1964年3月25日p186-188)

合気道の楽しみ方p6

1933 昭和8年

植芝盛平は朝日新聞で指導を開始

1934 昭和9年

塩田剛三、拓殖大学入学
同級生には柔道・木村政彦、空手・福井功がいた

拓殖大学三羽烏と呼ばれた三人だが塩田が二人と交流があり木村と福井はあまりなかったらしい
福井とは立ち合って投げたことがあり、木村とは腕相撲の勝負をして10回とも塩田の勝ちだったという

塩田先生と木村先生の対談記事 | BLOG of Taisei Sasaki (ameblo.jp)

父・塩田清一、脳出血により他界
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

時期不明
拓殖大学在学中に小川四郎、片岡幹之、吉永某とアジアの指導者育成のために「志道塾」を建てる

松田喬平
植芝道場で稽古しており、塩田剛三から指導塾の塾長を頼まれる。兄は総理大臣近衛文麿の懐刀とも呼ばれていたらしく後ろ盾として活躍。本人には色々な肩書があるがその実態はハッキリしない

(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

親友・能島登三によれば塩田剛三は拓大の予科1年生の頃には植芝道場の四天王と称されていたという
(「追悼・塩田剛三」)

能島登三
拓大時代の同級生で剛三が卒業するまでの5年間同級生であり、柔道では牛島辰熊、大谷晃に鍛えられ木村政彦と共に柔道選手権大会で優勝
後に戦死する可能性を考え自分の許嫁を塩田に譲る

1935 昭和10年

塩田剛三曰く、1935年~1937年あたりに木村政彦の師匠、牛島辰熊が植芝盛平の演武を見て「自分の弟子を挑戦させたい」と申し出て木村政彦を呼びに行かせ、それを悟った塩田剛三はそれを止めるために絶対に来るなと木村政彦に言いにいかせ、対決を実現させなかったという逸話がある(参考

1936 昭和11年

 5月31日
植芝盛平の弟子、阿部謙四郎が柔道五段選抜試合で4人抜きし、木村政彦を破る、以降、木村政彦は公式戦では負けることがなくなる(Wikipedia:阿部謙四郎

 8月21日
養神館で柔道を指導した大沼環、東京市渋谷区代々木山谷町453番地に引っ越し、自宅兼道場「養神館(大沼道場)」を開館
塩田清一も名誉館長に就任
塩田清一氏・大沼環・塩田剛三氏の3つの「養神館道場」

1937 昭和12年

愛新覚羅溥傑あいしんかくらふけつ嵯峨浩さがひろが結婚、二人の橋渡しは塩田清一がしたという
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

1938 昭和13年

 1月頃
陸軍戸山学校校長・賀陽宮殿下の要請により技術書『武道』作成、塩田剛三も写真に写る

時期不明
塩田剛三曰く、何年やっても内弟子にかなわないので、学校を二年休学して内弟子に入門
(森川哲郎編:武道日本(上)1964年3月25日p188)

1939 昭和14年

入門して2年ほどで盛平の出稽古に連く、先輩の内弟子が出ていったことからいつの間にか古参になっていた
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

米川成美は前年に満州協和会に入り組織活動(1938)、平井稔は岡山に道場を設立(1938)、大阪・田中万川は召集の為、道場閉鎖(1939)

 11月26日
満州建国大学で植芝盛平に投げられた相撲取り・天竜が弟子入りと稽古のために植芝道場に入門
(和久田三郎「相撲一路」国防武道協会1941年9月1日)

天竜(和久田三郎)
元大相撲力士で相撲界に改革を起こそうとして頭山満や久琢磨と協力していたが失敗し、満州で相撲の普及・育成に尽力した

塩田剛三によれば半月ほど大阪で弟子の前田利為公爵の関係で住友家と婚姻関係にあった小倉正恒などの協力で堀船町住友クラブで住友の社員に指導、大阪青バスで在郷軍人団に指導、大阪島の内署にいる剣道範士古賀と他数名、吹田の植芝道場などを周っていたという。責任者は白田林二郎
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

前田利為
日本の華族、加賀の殿様と呼ばれ植芝盛平の弟子でもあった

 12月頃
塩田剛三、植芝盛平の鞍馬山での稽古に参加
(植芝盛平と合気道1)

当時の植芝道場での教え方は「常に素直になれ」「師を信じろ」であり、細かい教えはなくメモなども禁止されていた

(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

植芝道場に藤平光一が入門

1941 昭和16年

 3月
塩田剛三、拓殖大学卒業
(「追悼・塩田剛三」)
軍属として海外各地に派遣
Weblio辞書「養神館」

塩田剛三、植芝道場を出るちょっと前に藤平光一が入門したと語る。当時の内弟子は非常に少なく事務の平井稔くらいだったので開祖は平井稔を連れて歩いていたという
(植芝盛平と合気道1)

 4月
塩田剛三、植芝盛平の斎寧館道場天覧演武に参加、受けは湯川勉と塩田、開始数分で湯川は腕を折り、その後40分に渡って激しい技を受けたため一週間寝込む
(合気道の楽しみ方p8)(【論説】植芝盛平の思想を正しく後世に伝えるために)(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

寺田精之、拓殖大学在学中に塩田剛三がつくった志道塾という学生寮に入る

上海へと旅立つ前に、植芝盛平と木刀を持って一時間ほど対峙「わしが十段だから、塩田はんは九段だ」とその強さを認められる
(篠原勝之「ケンカ道」p195)

 6月下旬
能島登三によれば塩田剛三と小川四郎に台湾で出会い台湾南方協会の職員で北投別館の管理者になっていたと語る。他の人の話とは若干時期がズレる
(「追悼・塩田剛三」)

 7月上旬
塩田剛三、中国派遣軍の総司令官・畑俊六から台湾軍参謀長和知鷹二中将、広東派遣軍総司令官後宮中将、仏印派遣軍参謀長長勇中将宛ての手紙と小遣い300円を預かりハノイへ向かう
途中の上海で拓大の後輩であり志道塾の後輩でもあった浦岡と合流し、フランス租界で遊ぶ。中国のやくざと揉めて多人数を相手に合気道の威力を知る
(森川哲郎編:武道日本(上)1964年3月25日p195)(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

 7月または8月頃
塩田剛三、上海での騒動後に拓大同級生・小川四郎と再会、日本の憲兵達の間では上海で汪精衛主席暗殺のために塩田が派遣されたという噂が流れ殺されたと思われていた
基隆⇒台北と共に移動、台湾司令部を経由し東広への飛行機を手配してもらう、ハノイへ行く予定だったがコレラが蔓延していた為1週間広東へ滞在し
8月下旬に台湾に戻る
畑俊六の勧めもあり南方協会(台湾での仏領インドシナへの進行に伴い安南の独立を画策する会)に入会
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

能島登三によれば7月28日、29日に日本軍がフランスとの協定に基づき南部仏領インドシナを平和的に進駐し、台湾南方協会がフランス軍指揮下だった安南軍の士官候補生数十名を北投別館で収容、塩田・小川両氏が合気道の指導をしたという
(「追悼・塩田剛三」)

 11月10日
塩田剛三、台湾拓殖株式会社の電報課書記となり暗号電報解読の仕事に就く
 11月12、13日頃
拓大時代の親友・能島登三と再会、酒を酌み交わした後に召集のため生きて帰れる保証がないので許嫁と代わりに結婚するよう頼まれ、酔いと眠気の中で「わかった」と答えてしまう。翌日共に挨拶に行き、年末に結婚
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

 12月頃
植芝盛平が近衛文麿らの意を受けて湯川勉を伴って秘密裏に出国し畑俊六と共に蒋介石との和平交渉を試みるも失敗

1946 昭和21年

 5月23日
塩田剛三、セレベス島マカッサルより引揚げ
(「追悼工藤昭四郎」1978年10月)

インドネシアでの収容生活を経て帰国、四谷にあった家は全焼しており、九州に避難していた妻と再会。息子が生まれていた
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

 6月中旬
妻が盲腸手術
 7月上旬
親子三人で東京に上京するも台湾拓殖は没収されており、南林間にいる義弟の沢田家に住まわせてもらう
 7月中旬
植芝盛平を頼って岩間に移住
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

家族と共に2ヶ月ほど岩間にいき植芝盛平の指導を受ける
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)(合気道の楽しみ方p11)

 8月
盛平の所に田中清玄がきて、外人に日本武道の真価を認めさせて欲しいと依頼され、塩田剛三、植芝盛平、植芝吉祥丸、阿部正と共に横浜にある神中組の寮に出向き進駐軍の将校への演武と説明
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)(合気道一路)p88-89

田中清玄
元日本共産党中央委員長。戦後に転向し実業家となり、CIAなどにも協力していたことからフィクサーとも呼ばれる

 その10日後
田中清玄より塩田剛三を秘書にしたいとの申し出があり、就職、通勤のため岩間から所沢へ引っ越す
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

吉祥丸の著書では盛平や吉祥丸には何も告ず、翌日に横須賀の田中清玄に会いに行き神中組の秘書になっていたという、但し、その後も交友関係は続いていた

(合気道一路)p88-89

 9月1日
塩田剛三、神中組社員として勤務開始
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

1950 昭和25年

神中組は就職後1年ほどで経営状態が悪化し倒産
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

 9月
品川の元台湾拓殖の上司だった岩田の紹介で鉄道信号工事会社の井川を紹介され営業として就職
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

日本鋼管鶴見製作所が行った大量解雇に伴うストライキに対する防衛を依頼され、拓殖大学の後輩達を55名ほど連れて参加

共産党が入り込み労働闘争を画策していたらしい

協力者として北所沢で西武農園をやっていた三上卓の所にいた拓大生・松尾忠敬ただよしを推薦され日当2000円で雇い、以下6名で鶴見製鉄の工場内を歩いて警備
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

 10月
工場の三カ所の出入り口に5名ずつ配置し警備を20名に増員
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

 11月
赤化分子を会社がクビにするも、工場内から出なかった為、行動の監視を続ける
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

 12月中旬
事件が落ち着き、拓大生は解散させ、会社からは初期の6名だけ28日まで警戒任務を任される
 12月28日
塩田剛三と松尾忠敬は固定給2万円週4回勤務交通費一回500円で契約
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

1951 昭和26年

塩田剛三、12月まで工場警備の勤務
母に父の知り合いが日本鋼管にいないか尋ねた所、高橋秀雄がいることを知る。下っ端の社員かと思いきや、浅野ドックの総務部長になっており、合気道の指導を依頼される
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

日本鋼管・高橋秀雄は塩田清一が世話をして日本鋼管に入れた

(森川哲郎編:武道日本(上)1964年3月25日p197)

 12月27日
浅野ドック各事業所責任者の前で演武
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

日本鋼管への指導をはじめるに当たって柔道6~4段の社員を相手に公開試合が行われ、保安課長清水6段をはじめ木村政彦の愛弟子で空手4段(「合気道人生」では剛柔流空手3段+相撲3段)、剣道3段の野口、他三名(「合気道人生」では4名)を多人数掛けで倒して実力を認めさせた
(森川哲郎編:武道日本(上)1964年3月25日p198)

1952 昭和27年

 1月
塩田剛三、日本鋼管の守衛たちに合気道指導
4事業所への指導が困難なため松尾忠敬を急遽教えて助手にする、その後、後輩の寺田精之も呼ぶ
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

寺田は合気会に入門(入会1952年)
合気道養神館精晟会HP

 6月頃~
警視庁幹部(高橋幹夫)が六中の同級生で警視庁教養係長・木下、広報課長・不老山の知己を得て巡回演武の依頼
松尾・寺田だけでは足りなくなり日本鋼管の猛者にも援助を依頼
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)
警視庁83署を巡回演武、当時は植芝道場の宣伝を兼ねていたと回想
(植芝盛平と合気道1)2970,2975,3002

松尾忠敬へのインタビューによれば、日本鋼管への指導は4カ所同時に始まり、一カ所で2回やるだけでも8回、これを寺田先輩と二人で回っていたと語る
また養神館の昇級技・昇段技はこの二人が決めた。演武では模造刀がなかったので真剣で塩田剛三に切りかかっていたという

1953 昭和28年

 8月
塩田剛三、警視庁巡回演武終了
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

1954 昭和29年

 7月
塩田剛三、ライフエクステンション日本総合武道大会(戦後初の武道大会)で喝采を浴び、財界人などに知られる
(植芝盛平と合気道1)2985

この大会には植芝道場から藤平光一も参加していたが、塩田剛三の演武が最も喝采され戦後合気道の第一人者的な立場になった

道場建設の機運が高まり志道塾塾長でもあった松田喬平は趣意書を作成し各界へ支援を働きかける

柏村信雄によれば養神館設立にあたっては緒方竹虎、辰野隆、工藤昭四郎などが関わった
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

大まかな人間関係の流れ
松田喬平の紹介で元朝日新聞出版局長・嘉治隆一に会い、辰野隆を紹介される、辰野隆が日本パルプの水野成夫を紹介
剛三の父・塩田清一が緒方竹虎の息子を診療していたことから知り合いだった為、緒方竹虎に養神館会長を依頼するが、緒方から工藤昭四郎を紹介される
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

 6月
辰野隆の紹介で警視庁の道場を借りて演武、国策パルプ社長島村、副社長水野成夫、常務南喜一と出会う
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

水野成夫
後のフジテレビジョン初代社長

南喜一
関東大震災の時に弟を殺されたことから共産党に入り活動するが後に転向、実業家になる。後のヤクルト本社会長

 9月か10月頃
南喜一の紹介で経済同友クラブのホールに絨毯を敷き42社の社長・専務を前に演武会、その中に工藤昭四郎がいた
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

緒方竹虎は養神館の会長を打診されていたが副総理官邸で嘉治隆一、天竜三郎、竹内俊一、高橋秀雄などの後援者を呼び工藤昭四郎に会長を依頼、工藤昭四郎が初代会長となる

(「追悼工藤昭四郎」1978年10月)

 10月22日
塩田剛三、植芝盛平より8段認可

時期不明だが寺田精之によると塩田は「次の審査の時、免状はおれが出す」と語り、植芝盛平とは自然離反状態になっていったという

 11月
毎週水曜日5時から、南喜一の援助で客間12畳に敷物を敷いて稽古開始
参加者は工藤昭四郎、岸道三、竹内俊一、恒吉辰男、尾崎士郎、郷古潔など20名。すぐに手狭になり南喜一が道場建設を提案した
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

 12月
暮れに南喜一と親子の契を結び、スイス製ユニバーサルの時計を貰う
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

塩田剛三によれば初期の養神館は松尾忠敬が相談役、弟子は杉井初太郎だけ
(会報「養神」)

岩間の茨木道場で大沢喜三、有川定輝、山口清吾、寺田精之、植芝吉祥丸、藤平光一、斉藤守弘らが映った写真が撮られている(どう出版:笑顔で一堂に会する開祖内弟子

養神館道場にまつわるウワサ
聞いた話によると、養神館は場所を移る度に職員もほぼ全員入れ替わるような形になっており、世代ごとに断絶があるらしい
その話に則って、養神館の立地ごとに年代を大きく区切ってみた

筑土八幡町・養神館(1955)

合気道とは「剣の動きを体に生かした武術」

塩田剛三

1955 昭和30年

道場がない時期の創立メンバーは松尾忠敬、田中茂穂、渡辺準任、寺田精之、日本鋼管・野口幸夫
南喜一が呼びかけ、水野成夫と財界から出資を募り道場の建設に着手

建設にあたっては税制面での対策などから工藤昭四郎が合気不動産株式会社を設立し、養神館に土地建物を賃貸。社長は南喜一
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

三菱金属の大岡太郎が大手不動産の専務をしていた為、筑土八幡町の土地を見つけてくる
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

 春頃
植芝盛平が1週間の有段者特別講習を実施、参加者は砂泊諴秀、田中万川、引土道雄、白田林次郎、大竹先生等、最終日には塩田剛三、香取神道流菅野、忍術の藤田西湖、居合道の松尾などが参加
三元会Talking to Tsuneo Ando Part 1 – the Gozo Shioda that Nobody Knew

 6月10日
東京都新宿区筑土八幡町に合気道養神館道場が竣工
Wikipedia養神館合気道20240821)(植芝盛平と合気道1)2985

植芝吉祥丸はこれをみて開祖・植芝盛平の演武を世に公開することを決意したと語っている

 夏頃
末澤秀明、入門
(「追悼・塩田剛三」)

 11月1日
井上強一、友人から養神館の案内書を貰い、中央大学の同級生・串田誉司を誘って見学
和気あいあいとしていて楽しそうだったからという理由で入門
当時は塩田剛三からの直接の指導ではなく真ん中で技を見せて、後は5名ほどの内弟子からの指導だった
井上強一 養神館合気道九段範士

1956 昭和31年

研修制度が制定、井上強一、串田誉司が養神館第一期研修生に
井上強一 養神館合気道九段範士

末澤秀明によれば内弟子の波多野・若林・中島と、稽古に励んでいた門人の佐藤・雨宮・末澤・串田・井上・カニングハムを対象に研修制度が発足
(「追悼・塩田剛三」)

当時の研修員制度の内容について
火木の週2回、午前中2~3時間の稽古
前半は正座、黙想、生活態度の習慣や反省、塩田の訓話などだがその間ずっと正座であることが極限の苦痛だったと語られている
後半は実技、実戦的練習をし体力・呼吸力の限界まで一つの技、一つの動作を繰り返し訓練する
松尾師範による指導で袋竹刀での打ち合い、寺田師範は実践的な基礎格闘の訓練等、一般の稽古ではやらない内容だった

技の名づけについて
塩田剛三は養神館の型を井上強一などの若者と一緒につくりあげ、臂力の養成などの名づけも自分で行ったと語る
(植芝盛平と合気道1)3017
※但し、『臂力の養成』『終末動作』等の文言は養神館以前の植芝盛平『武道』にも記載がある。『武道』には塩田剛三も受けとして出ている

内弟子について

以後、養神館では弟子と内弟子とが明確に区別されており、内弟子は養神館に住み込みで働き館長・塩田剛三の身の回りの世話や雑務を行いつつ、激しい稽古を行い、養神館から給与が支払われ一流の合気道家を目指す人が集ったという
また内弟子になることを許されるのはごく一握りだったとも言われている
塩田剛三が植芝盛平の内弟子として様々な体験をしたことが活かされていると考えられる

1957 昭和32年

 6月3日
各国大使公使招待演武会。数十か国の大使や公使が集う
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

1959 昭和34年

南喜一によって道場で「呉汁会」が実施、毎週水曜日の朝稽古終了後、大豆を潰した汁料理を食べながら歓談
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

1960 昭和35年

 4月
警視庁警備部長の同級生・高橋幹夫により警視庁での合気道指導が決定
当初は25名の柔道・剣道教士、警備課の要員への講習会と警視庁機動隊への巡回指導
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

木目田猛(日系カナダ人)が明治学院大学に入学、合気道部に入部、養神館から指導に来ていた串田誉司、井上強一らに指導を受ける
WikiTia-Takeshi Kimeda20240822

 5月31日
南喜一が国鉄公安の総裁・十河そごう氏に提案し、東京駅の道場で演武を披露した結果、採用。国鉄公安本部の指導が開始
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

十河信二
満州国で経済政策立案を行う満鉄の機関、満州鉄道株式会社の理事を務めた
経済調査会初代委員長、西条市長、日本経済復興協会会長、鉄道弘済会会長、日本国有鉄道総裁などを歴任、新幹線の導入に携わり「新幹線の父」とも呼ばれる

1961 昭和36年

 9月23日
塩田剛三、岩間で植芝盛平による9段審査、木剣と素手で一対一の立ち合いを行い9段免状を授与
塩田は植芝盛平から「もう充分、体術ができておる。これからは神になる修行をしなければならん」と言われたが「俺はまだ、神様になりたくねえな」と笑い、合気会との差別化の為か思想的な面には手をつけなかった
(合気道を学ぶ人のための古事記入門)

※ただしこの段位に関しては合気会の「合気道新聞」では昇段記録に載っておらず、植芝盛平からの直接の授与だと思われる

木目田猛、合気道の修行のため本部道場に入会
明大では春秋2回の審査は本部道場で塩田剛三から受けていたが「喧嘩のような殴り合い殺し合いでは合気道ではない」と言われ2度黒帯を逃したという
(「追悼・塩田剛三」p92)

1962 昭和37年

 2月2日
南喜一の提案により国旗掲揚台を建設
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)
 2月10日
中曽根康弘の斡旋でロバート・ケネディ夫妻が朝6時に来館し、演武を見学、NHKはじめ各テレビ局、報道紙、総勢80名以上の報道関係者が集まる
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

この時、ケネディのボディガードを座り技で抑える
Wikipedia養神館合気道20240821)(植芝盛平と合気道1)2991(合気道の楽しみ方p24)

 4月12日
道場の常務理事・佐志田社長の好意で大和興行「合気道」映画撮影
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

1963 昭和38年

 1月28日
南喜一の斡旋で東京国鉄公安室演武大会
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

 4月
各機動隊から1、2名が1年間養神館道場勤務となり合気道専門の訓練が開始
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

串田誉司、航空自衛隊・警視庁機動隊・鉄道警察を1973年まで指導
Wikipedia Takashi Kushida

1964 昭和39年

 8月19日
英国、ニュージーランド大使が来館し演武会
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

木目田猛、明治学院大学卒業、合気道部キャプテンで当時の段位は3段
同級生の合気道部員安田とロサンゼルスに渡りヴァージル・クランク養神館合気道道場を設立、その後ミシガン州ディアボーンへ渡り合気道の指導
カナダで空手家の鶴岡正美と知り合い、カナダの鶴岡空手道場を間借りし合気道の指導、場所を変えながら4年間運営
WikiTia-Takeshi Kimeda20240822

当時の師範は寺田精之、松田、指導員としてJ・B・カニングハム3段、串田誉司5段、井上強一5段、斉藤多嘉志3段等
支部は静岡県三島、ハワイ・ホノルル(担当牧山)、ロサンゼルス(合気道学校・担当コームス:憲兵として日本に3年間在籍し養神館3段)
(合気道の楽しみ方p22)

養神館の会員は7000人以上
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

 12月25日
南喜一により筑土の道場を売却し、代々木に移転
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

1964年の書籍「合気道の楽しみ方」では「植芝道場と養神館の合併、または連盟を組織するために、現在両幹部の間で種々折衝中ですが、一日も早く完成し、世界の合気道として発展させたく念願しています。」という記述があり、当初は植芝道場との合併の可能性があったことが示唆されている

合気道の楽しみ方p24

代々木・養神館(1965)

1965 昭和40年

専修生制度開始・第1期専修生

東京都渋谷区代々木に代々木道場竣工、筑土八幡道場より移転

10周年を記念した回顧によれば
会長・工藤昭四郎
理事長・南喜一
師範・寺田、松尾、指導員・串田、井上
研修員・大西、岡田、八木、その他数十名となっている
(会報誌「養神」)

 1月8日
木目田猛、カナダに渡る為、内弟子になり代々木道場で7ヶ月の稽古
(「追悼・塩田剛三」p92-93)

 4月10日
合気道指導者養成学校設立、代々木一帯は高層建築は建築できなかったが南喜一の協力により学校という形で建設
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

 9月18日
常陸宮殿下が養神館に来館、二階講堂での演武の後、南喜一らと談笑
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

 9月20日
アレクサンドラ王女、来館
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

大西忠男、養神館に入会
電話は鳴る前に取る、お茶の湯加減も臨機応変に入れなければならない厳しいものだったという
当時の内弟子は串田・井上、大西、岡田、八木、駒形と警視庁機動隊第1期専修生だったという
(「追悼・塩田剛三」p63-68)

当時の研修制度について
昭和39年に警視庁に入った中島孝雄によれば、要人警護を行う機動隊の小隊に入るには養神館への派遣が義務づけられており、全寮制で柔道か剣道の三段以上が条件
道場での稽古はあまりにも厳しく泣き出す者もいるほどで10個隊ある機動隊から各2名合計20名が派遣され、1ヶ月で半分になるまでしごかれていた

『秘伝』2011年4月号

1966 昭和41年

第2期専修生

 6月3日
中村梅吉文部大臣来館
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

1968 昭和43年

第4期専修生

竹野高文、養神館に入門
Weblio辞書「養神館」
 1月8日
木目田猛、養神館本部道場に引っ越し、8ヶ月間の稽古、塩田剛三から北米での合気道指導を許可される
WikiTia-Takeshi Kimeda20240822

 5月
塩田剛三、アキレス腱切断
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)
大西忠男によれば、二人の演武中での出来事だったという
(「追悼・塩田剛三」)

弟子の駒形氏が運転手、小川忠男がおぶって半年間、上野の金井整骨院に通院治療
(「追悼・塩田剛三」)

 秋頃
能島登三宅に巨人軍エース投手・スタルヒンの娘と一緒にきて二人の合気道の演武を観たという
(「追悼・塩田剛三」)

 9月30日
キワニスクラブご来館
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

1969 昭和44年

第5期専修生

 2月
南喜一、腹痛を訴える
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

 4月10日
創立15周年演武会
南喜一が工藤昭四郎会長の健康上の理由からの辞意があったため柏村信雄を推薦すること突然宣言、会長交代となる
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

 11月10日
半蔵門会館で柏村信雄会長就任パーティ、南喜一は羽織袴で出席し、約20分間スピーチを行ったがひどく痩せていた
(南喜一追想録刊行会「追想南喜一」1971)

千田務、養神館に入門
Weblio辞書「養神館」

杉本久によれば千田務は東京代々木の大学予備校に通っていた時、近くを散歩中に養神館の道場をたまたま覗き、世間話をしていたら会員証が出来ており入会したのだという

「合気道の達人・塩田剛三と千田務・錬身会合気道最高師範」 : ビジネスマン合気道家の痛快エッセイ (exblog.jp)

櫻井文夫、養神館に入門、当時15歳
格闘K通信インタビュー

 4月22日
塩田剛三、病床の植芝盛平のお見舞いに、稽古しようと言い出して止めようとする弟子を四人投げる
 4月26日
植芝盛平逝去
(植芝盛平と合気道1)

1970 昭和45年

第6期専修生

 1月30日
南喜一死去
Wikipedia南喜一

井上強一、警視庁教養課兼警察学校に勤務、合気道指導
井上強一 養神館合気道九段範士

1971 昭和46年

第7期専修生

千田務、合気道養神館本部内弟子に
Weblio辞書「養神館」)(千田務 - Wikipedia

1972 昭和47年

第8期専修生

1972~1975年頃に、極真空手・奥田勝己が拓殖大学在学中に中山正敏を訪ねて道場に来ていた塩田剛三に1時間ほど何もできず投げられ続けたと語っている
邂逅…あの時の「手合わせ」 : 武道カラテ稽古日記 (exblog.jp)

小金井・養神館(1973)

185畳2階建
1階は居住区、塩田館長事務所、道場事務所、食堂
午前と午後に機動隊の訓練、夜は一般稽古
三元会Talking to Tsuneo Ando Part 1 – the Gozo Shioda that Nobody Knew

1973 昭和48年

第9期専修生

木目田猛、カナダ・トロントで指導を続け、串田誉司を北米に招く
WikiTia-Takeshi Kimeda20240822
串田誉司がアメリカ・デトロイトの指導者として渡米
Wikipedia Takashi Kushida

 11月
小金井に道場建設
(「追悼工藤昭四郎」1978年10月)

1975 昭和50年

第11期専修生

堀川幸道、養神館に訪問し塩田剛三と対談
この頃に小川忠男は合気を求めて養神館を退職し北海道へ
大東流合気柔術小川道場

塩田剛三の合気道観について
井上強一によれば晩年、塩田剛三は「合気道とは天地自然と一体になることだ」「(開祖の神話的な発言の)裏付けが取れてきた」と語り、技も厳しいものから力を抜いた技になっていったという

合気道を学ぶ人のための古事記入門

安藤毎夫、徳島大学入学、合気道部に入り合気会・工藤泰に師事
三元会Talking to Tsuneo Ando Part 1 – the Gozo Shioda that Nobody Knew

1976 昭和51年

第12期専修生

串田誉司、養神館合気道北米協会(YANA)を設立
Wikipedia Takashi Kushida

1977 昭和52年

第13期専修生

櫻井文夫、養神館本部職員に
格闘K通信インタビュー

ロバート・マスタードがアメリカ串田誉司の演武を見て合気道に興味を持つ、大学で木目田猛主催のクラブに参加、約10年で三段まで稽古する
Wikipedia-Robert Mustard

1978 昭和53年

第14期専修生

 
安藤毎夫、留年して時間があった為、先輩の千田務からの紹介もあり養神館で1ヶ月の合宿を行う。
1時間ほど正座を崩さずにやりとりする座学の時間や膝から血が出るまで座技の稽古をした
三元会Talking to Tsuneo Ando Part 1 – the Gozo Shioda that Nobody Knew

竹野高文、養神館本部師範及び警視庁合気道嘱託師範に~1987年
Weblio辞書「養神館」)(YouTube合気道養神館本部道場

八木悦雄、日本合気道研究会東京会 世田谷本部道場開設
(雄神会HP)

1979 昭和54年

第15期専修生

櫻井文夫、養神館本部師範に
格闘K通信インタビュー

八木悦雄、独立
(雄神会HP)

1980 昭和55年

第16期専修生

安藤毎夫、卒業後大阪の商社に就職し合気道をやめるが半年後、和歌山に転勤となり合気会・高岡貞雄に出会い稽古を再開
仕事で大きなミスをして退社、高岡貞雄の内弟子になろうとしたが弟子をあまり取っていなかった為、養神館に行く事を決意
千田務の仲介で塩田剛三から許可を得る
三元会Talking to Tsuneo Ando Part 1 – the Gozo Shioda that Nobody Knew

 9月
ジャック・パイエが塩田剛三を探して来日、何の情報もなかったが探し回って奇跡的に発見。塩田泰久から塩田剛三を紹介され住み込みで稽古。当時の稽古担当は竹野高文だったと語る
Wikipedia-Jacques Payet

1981 昭和56年

第17期専修生

串田誉司、ワシントンDCの大統領評議会で演武
Aikido Yosyokai HP20240822

 5月21日
安藤毎夫、養神館入門、内弟子になる
生活費6万円で道場清掃、お茶、食事の準備、着替えの手伝い、運転、風呂の準備、背中流し、電話が鳴る前に電話を取る、合気道の指導などをやっていた
安藤は塩田剛三が植芝盛平から受けた指導の現代的なアレンジだと分析している
Weblio辞書「養神館」
三元会Talking to Tsuneo Ando Part 1 – the Gozo Shioda that Nobody Knew

 4月
ジャック・パイエ、専修生制度に参加し内弟子に
Wikipedia-Jacques Payet

1982 昭和57年

第18期専修生

この頃から埼玉県川越市にある「ひまわり幼稚園」で朝から夕方まで週2回の養神館合気道の指導がはじまる
三元会Talking to Tsuneo Ando Part 1 – the Gozo Shioda that Nobody Knew

安藤毎夫は幼稚園が小金井からはかなり遠かった為、ここの担当になったら養神館を辞めざるを得ないと考えており、他の内弟子達も同様の考えだった
辞めようとした所、塩田剛三から引き止められ「君ならできる」と言われた為、指導方法を徹底的に改善し、自身の稽古のために稽古後1時間ほど基本動作の1人稽古をはじめ、これが大きな変化に繋がったと語っている

三元会Talking to Tsuneo Ando Part 1 – the Gozo Shioda that Nobody Knew

1984 昭和59年

第20期専修生

 6月10日
東京都新宿区上落合に新宿道場竣工、落成記念式典が開催され海外支部より百数十名が参加
(日本古武道大会:日本古武道振興会創立50周年記念誌1985年7月)(Wikipedia養神館合気道20240821

新宿道場は六中時代の友人・高山隆之の好意によるもの

(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

 9月22日
中野区立体育館で総合演武大会、塩田剛三は総合解説模範演武
(日本古武道大会:日本古武道振興会創立50周年記念誌1985年7月)

この頃から養神館には皇太子殿下、前田日明、マイク・タイソンといった人物が来館し、塩田剛三のメディア露出も増え、新宿道場は初期こそ閑散としていたものの、生徒はすぐに盛況になった
1987年頃に竹野高文が退職するまでは明確な分担というほどではないが小金井が竹野高文、新宿が千田務の担当だった

はなし汎武ん:養神館-新宿初期の頃Ⅰ [合気道の事など 1 雑文]

時期不明
安藤毎夫、ひまわり幼稚園での稽古で自信をつけ相手の動きがスローモーションに見えるようになった
内務大臣が養神館に塩田剛三の演武を見学に来た際、剛三の指での突きを避けようとしていたが一瞬の隙を突かれて入れられる
その後、塩田剛三から「上達した」と褒められる
三元会Talking to Tsuneo Ando Part 1 – the Gozo Shioda that Nobody Knew

1985 昭和60年

第21期専修生

 1月3日
書籍「合気道人生」の推薦の言葉として弁護士で元検事総長の井本台吉が寄稿、20年来の付き合いであると語られる(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

井本台吉は治安維持法違反の供述を引き出そうとする執拗な取り調べ等で有名だったらしい

Wikipedia井本 臺吉

安藤毎夫によるとこの頃から塩田剛三から指導を受けられるようになったという
三元会Talking to Tsuneo Ando Part 1 – the Gozo Shioda that Nobody Knew

千野進、養神館入門
Weblio辞書「養神館」
櫻井文夫、養神館職員を辞任し、塩田剛三の許可を得て合気道.S.Aを設立
格闘K通信インタビュー

機動隊の養神館道場勤務は21期生を迎える
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

1986 昭和61年

第22期専修生

千野進、内弟子となる(21期専修生)

小川忠男、堀川幸道からの3年の個人教授を経て東京近郊に大東流合気柔術小川道場を開設
大東流合気柔術小川道場

森道治、第22期専修生課程修了
豪州流合気柔術HP

ジャック・パイエ、フランスで合気道の指導をすべく帰国するも政治情勢などにより指導は困難だった
Wikipedia-Jacques Payet

 3月30日
ロバート・マスタード、木目田猛の紹介状で養神館本部道場に通う。5月には研修生に以降9年間塩田剛三の下で稽古する。本人は千田務や竹野高文の影響が強いと語る
Wikipedia-Robert Mustard

新宿道場は小金井以上に活発になり、塩田剛三、竹野高文、千田務、桜井文夫、中野仁といった面々がローテーションで小金井と新宿を回るようになり、どちらも本部道場のような状態に

養神館-新宿初期の頃Ⅱ [合気道の事など 1 雑文]

1987 昭和62年

第23期専修生

千田務、新宿の合気道養神館師範に
竹野高文、財団法人合気道養神会を退職、警視庁合気道嘱託師範退任
Weblio辞書「養神館」

この頃から格闘技通信などの雑誌で養神館が取り扱われ、知名度が上がる
Wikipedia格闘技通信

ジャック・パイエ、イギリスに渡り英国合気道養神館連盟の技術顧問に就任
Wikipedia-Jacques Payet

八木悦雄、NTTハロースポーツプラザ墨田合気道教室の講師に就任
(雄神会HP)

1988 昭和63年

第24期専修生

千田務、警視庁教養課嘱託師範に
Weblio辞書「養神館」
伊東健治、京都産業大学合気道部に入部
合気道月光流
ジャック・パイエ、養神館で稽古するためイギリスから日本へ
Wikipedia-Jacques Payet
塩田剛三、ドイツでセミナー、これが最後の海外セミナーとなる
Wikipedia-Jacques Payet

新宿・養神館(1989)

1989 平成元年

第25期専修生

養神館本部を新宿道場に移転、小金井道場閉館
Wikipedia養神館合気道20240821

八木悦雄、静岡県に富士支部を設立
(雄神会HP)

1990 平成2年

第26期専修生

 2月7日
マイク・タイソンが養神館に来館
【感動】③塩田剛三合気道PART3

 4月12日~5月26日
塩田剛三、「黒帯会」及び「研修会」での指導

 7月28日
塩田剛三、研修風景が映像で記録されている
QUEST OnDemand (queststation.com)

 8月
国際養神会合気道連盟(IYAF)が設立され、北米の串田誉司が設立した養神館合気道北米協会(YANA)と協議したがまとまらず、YANAは参入しなかったことで串田と養神館の関係が断絶
Wikipedia Takashi Kushida

当時の書籍によれば海外支部は下記の通り
北米養神館・串田誉司、カナダ養神館・木目田猛、英国養神館・A・Yates、フランス養神館・J・Muguruza、ドイツ養神館・長野弘路(7期専修生)、マレーシア養神館・F・Ramasamy、ニュージーランド養神館・E・Wong
また後の養神館龍である養神館浦安同好会・安藤毎夫、後の精晟会である養神館寺田本部・寺田精之
学校の合気道部は明治学院大学、上智大学、日本大学歯学部、桜美林大学、仏教大学、大阪電気通信大学、都立稲城高校、都立山崎高校、私立秋川東中
(塩田剛三「合気道人生」増補改訂第3刷)

1991 平成3年

第27期専修生・第1期国際専修生

 2月23日
塩田剛三、新宿道場で内弟子を中心に「構え」についての特別講義、映像に残っている最後の指導風景となる

ジャック・パイエ、養神館で外国人向けの国際研修生制度を設計
Wikipedia-Jacques Payet

初期国際専修生の指導は千田・中野仁が主に担当し、ロバート・マスタード、ローランド・トンプソン等が国際専修生に激しい稽古を行った

 12月
串田誉司、養神館より解雇
Aikido Yosyokai HP20240822
独立しAIKIDO YOSHOKAI ASSOCIATION OF NORTH AMERICA「耀翔会」を立ち上げる
Aikido Journal串田誉司
玄耀館道場を設立、この道場では串田家に200年以上伝わる武器術Genbu操刀術の指導も行っている
Aikido Yosyokai HP20240822

1992 平成4年

第28期専修生・第2期国際専修生

井上強一、9段位認可
竹野高文、8段位認可
Weblio辞書「養神館」
伊東健治、第28期専修生、財団法人合気道養神会の職員となり、塩田剛三の内弟子に
マーク・ベイカーのあとを引き継ぎ最後の館長運転手に
合気道月光流

1993 平成5年

第29期専修生・第3期国際専修生

千田務、8段位認可
千田務 - Wikipedia
安藤毎夫、合気道養神館師範に
Weblio辞書「養神館」
森道治、5段認可
豪州流合気柔術HP
※千野進・森道治は同日に受審

5段以上は塩田剛三直筆の免状が授与されていた

1994 平成6年

第30期専修生・第4期国際専修生

千田務、合気道養神館主席師範に
Weblio辞書「養神館」
森道治、オーストラリア、アメリカ、カナダを巡り道場を建てる場所を探す
豪州流合気柔術HP
 7月17日
塩田剛三、逝去
Wikipedia塩田剛三

ネットのウワサ話
塩田剛三逝去の前後で養神館内部では「ちょっとしたゴタゴタ」があり、それに伴い森道治はオーストラリアに不本意ながら行く事になり、竹野高文、桜井文夫は辞め、中野仁は道場に立たなくなり、千田務の中心指導もなくなった

養神館-新宿初期の頃Ⅱ [合気道の事など 1 雑文]

1995 平成7年

 7月
森道治、オーストラリア・ブリスベンで合気道養神館ブリスベン道場開設
豪州流合気柔術HP

ロバート・マスタード、日本を離れカナダのブリティッシュコロンビア州バーナビーで合気道養神会バーナビー道場を開設
Wikipedia-Robert Mustard

 9月30日
安藤毎夫、養神館からの独立を決意
妻からの勧めもあり、当時は珍しいホームページやブログを立ち上げた
これは養神館でははじめてのホームページとなる
三元会Talking to Tsuneo Ando Part 1 – the Gozo Shioda that Nobody Knew

1996 平成8年

 2月11日
安藤毎夫、同じく内弟子だった妻と塩田剛三の墓参りに行く
三元会Talking to Tsuneo Ando Part 1 – the Gozo Shioda that Nobody Knew

井上強一、警視庁退職
竹野高文、国際武道連盟より武道功労賞受賞

 10月
安藤毎夫、財団法人合気道養神会を退職
Weblio辞書「養神館」

1997 平成9年

 1月29日
安藤毎夫、妻に先立たれる
当時妻を看病していた千葉県浦安市で土地を見つけ引越し
三元会Talking to Tsuneo Ando Part 1 – the Gozo Shioda that Nobody Knew

1998 平成10年

安藤毎夫、内弟子希望の若者がやってきて、当時は道場ではなく公民館で教えていた為、内弟子を取るために道場をつくる決意をする
三元会Talking to Tsuneo Ando Part 1 – the Gozo Shioda that Nobody Knew

10月
八木悦雄、独立20周年記念に合気道「雄神会」として発足
(雄神会HP)

2000 平成12年

ジャック・パイエ、アメリカに渡りミネソタ州を経てカリフォルニア大学システムで指導
Wikipedia-Jacques Payet

2001 平成13年

森道治、6段認可
豪州流合気柔術HP
ジャック・パイエ、ケビン・ピカードの協力を得てロサンゼルスに無限塾道場開設
Wikipedia-Jacques Payet

2002 平成14年

井上強一、合気道養神館二代目館長就任
千田務、合気道養神館本部道場長就任
千野進、合気道養神館本部師範就任
Weblio辞書「養神館」
伊東健治、養神館合気道5段に
合気道月光流

2003 平成15年

千野進、高田馬場道場担当師範就任
Weblio辞書「養神館」

2005 平成17年

 1月
この頃の高田馬場道場では塩田泰久が中心になり安藤毎夫と千野進が指導
合気道龍大阪 村川真啓のブログ

ジャック・パイエ、京都に移住するため無限塾道場をデイビッド・フライバーガー(第3期国際専修生・29期専修生と同期)に引き継ぐ
 5月
同志社大学の副所長に就任
Wikipedia-Jacques Payet

養神館創立五十周年演武大会開催
(養神館-新宿初期の頃Ⅱ [合気道の事など 1 雑文]

2006 平成18年

 12月
ロバート・マスタード、7段認可
Wikipedia-Robert Mustard

2007 平成19年

塩田泰久、三代目館長就任、二代目宗家となる
竹野高文、9段位認可
安藤毎夫、8段位認可
井上強一、財団法人合気道養神会を退職
千田務、財団法人合気道養神会を退職
Weblio辞書「養神館」
森道治、7段認可
豪州流合気柔術HP
伊東健治、財団法人合気道養神会を退職し『合気道月光流』設立
合気道月光流
ジャック・パイエ、同志社大学で個人的に稽古していたが稽古が多くの人の目に留まり大学非公式で指導するようになる
Wikipedia-Jacques Payet

 5月16日
養神館龍創立20周年記念式典

 11月3日
小川忠男、逝去
大東流合気柔術小川道場
 11月4日
安藤毎夫、ステファニー・ナンバーン指導員と結婚披露宴
合気道龍大阪 村川真啓のブログ

2008 平成20年

寺田精之が10段に
合気道養神館精晟会HP
千田務、養神館より独立し「合気道錬身会」を設立・警視庁より永年の功績を称える感謝状を受賞
千野進、警視庁警務部嘱託師範就任
Weblio辞書「養神館」
ジャック・パイエ、京都に無限塾道場を開設
Wikipedia-Jacques Payet

千田務の独立に伴って大学の主だった学生合気道部や担当していた支部が養神館を出た

高田馬場・養神館(2009)

東京都新宿区高田馬場に高田馬場本部道場竣工、新宿道場より移転
Wikipedia養神館合気道20240821

2009 平成21年

竹野高文、合気道養神館最高顧問に就任
安藤毎夫、合気道養神館主席師範に就任
Weblio辞書「養神館」
 7月13日

寺田精之最高顧問逝去
Wikipedia養神館合気道20240821)(合気道養神館精晟会HP

2010 平成22年

井上強一、親和館設立
気之充電20141006)

2011 平成23年

 8月
ロバート・マスタード、師範の称号を授与される
Wikipedia-Robert Mustard

2012 平成24年

 5月10日
串田誉司、逝去
Aikido Yosyokai HP20240822
 6月14日
塩田泰久、養神館館長辞任
Wikipedia塩田泰久20240821
千野進館長代行就任、合気道養神館道場長(八段)に
Wikipedia養神館合気道20240821)(Weblio辞書「養神館」

2014 平成26年

塩田泰久、塩田国際合気道連盟(SIAF)を設立、代表に就任
Wikipedia塩田泰久20240821

 11月
ロバート・マスタード、8段認可
Wikipedia-Robert Mustard

2017 平成29年

井上強一、二代目館長逝去
Wikipedia養神館合気道20240821
千野進、財団法人合気道養神会を退職
Weblio辞書「養神館」

2018 平成30年

乗木雅彦、道場長就任
Wikipedia養神館合気道20240821)(Weblio辞書「養神館」
森道治、8段認可
豪州流合気柔術HP

2022 令和4年

 11月16日
竹野高文、山梨養神館館長逝去
YouTube合気道養神館本部道場

2023 令和5年

木村孝、道場長就任(第9期研修生)
安藤毎夫、合気道養神館から合気道龍として独立
Weblio辞書「養神館」

 12月7日
森道治、養神館から除名
豪州流合気柔術として独立・本人曰く除名理由は「豪州流合気柔術」として生徒を集めていたからとのこと
YouTube aikidoyoshinkanコメント欄参照)

つづく

塩田剛三の師匠・植芝盛平の歴史を知りたいなら↓

マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?