人間関係のすれ違いは実は極意じゃね?と思う
人と人はわりと勘違いやすれ違いでぶつかることがある。
しかしこれを分解してみると、そもそもはぶつかろうとしていない。
お互いにぶつからないようにしようとした結果として、正面衝突が発生し、そしてケンカになったりしてしまうわけだ。
この最初のぶつかろうとしていなかったという心意気は買うべきなんじゃないかと思う。
無住心剣流の極意
かつて江戸時代初期に存在したという無住心剣流の針ヶ谷夕雲は剣術とは「相打ち」で良いと言ったのだという。
相手を倒す事が目的であるのだから互いに相手を倒すなら相打ちになることもあるわけだ。
しかしながら、本当に極まった者同士であれば互いに相手を倒すことなく抜ける「相抜け」が発生するであろうとも言っている。
相抜けとはつまるところお互いにぶつかることなく「すれ違う」ことだ。
人類のすれ違い
面白いもので人と人のすれ違いというのは剣術の逆で、別に相手を倒したいわけではなく自分の利益みたいなものを優先した結果、相手が思わぬ行動をしてしまってすれ違うわけだ。
そうなってしまうと本格的な争いに発展する。
本来は戦う気のなかった者同士がすれ違うと戦いに発展し、戦って相手を倒すつもりの者たちがすれ違うと相抜けになるというのは愉快な矛盾だ。
そもそもすれ違いというのはアンジャッシュのコントのように滑稽なものなのかも知れない。
相抜けの方法
ではどうすれば人間社会でのすれ違いにも相抜けが使えるかと言えば、これは圧倒的な余裕と客観的な視点がないと難しいだろう。
そもそも相抜けとは互いに相手を倒そうとする意志が必要なわけで、一度は相手にぶつかる覚悟を抱かせる必要がある。
つまり自分が戦う前からすでに相手を動かす用意をするという合気道的な視点が必要になるわけだ。
その上で自分たちがどんなすれ違いを起こしているのかを説明できたならそれは笑い話で終わるかも知れない。
とはいえこれはちょっと難しい話なので、とにもかくにもすれ違いというのは別に相手を倒そうとして発生するものではないということを理解するだけでも争いは減るのではないだろうか?
我々の起こす「すれ違い」は「相抜け」のなり損ないなのである。