被害者意識でいることの危険性について合気道で考えてみた

ずっと「被害者」の意識でいるとよくないって話を聞いて、合気道でも同じことが言えそうだなと思ったから書く。

虐待、イジメ、パワハラみたいな理不尽に辛い経験をさせられた被害者はどうしてもその時の事を引きずってしまう。

けど、周りからも被害者として扱われ続けるとやがてその属性は呪いみたいに被害者を縛ってしまうようだ。

今の世の中はSNSでちょっとした不幸自慢や理不尽な事への告発がバズったりと被害者でいることが何かとオイシイ世の中でもあるけれど、被害者のままでいることはやがて呪いになるのかも知れない。

受身でいることの危険性

合気道は「受け」の武道だと思われがちだけど、実際のところ相手の攻撃を捌くためには受身の姿勢ではいけない。

攻撃を捌くためにはまずはこちらの攻めの姿勢が必要だ。
昔は「我より進みて」攻撃を誘うとも言われていた。

つまり合気道で稽古するカタには暗黙の了解としてこちらが先に攻めの姿勢を見せたから相手は後手に回って攻撃してくるという前提がある。

そういった先に攻めることを、合気道では入身イリミという。

わざと殴られたいなら、先に挑発する必要があるのだ。
その結果として殴られたら「被害者」になるかも知れないけれどその意識はまるで違う。

「殴られた」と「殴らせた」は似ているようで違うのだ。

受身を取ろう

被害者意識というのは「守り」の姿勢のことだ。
守ったままでは攻撃に移れない。
合気道では受身でいることと受身を取ることは違う。

受身を取るというのは能動的だ。
被害を最小限に抑えながら勝負を仕切り直す。
今度はこちらから攻めるために受身を取る。

これは心の状態としても同じ事だと思う。
ただ攻撃が過ぎ去るのを待って防御するよりも、一度は逃げてでも仕切り直す方が肉体的にも精神的にもダメージが少ない。

合気道は最初から勝っている

そもそもイジメやパワハラやDVなどの理不尽な被害にあったということは、最初の時点で実は相手にとって脅威だったからだ。

自分にとってはなんでもないような事が相手には脅威と取れたのかも知れない。

被害者だからといって何もできなかったわけではなくて、むしろ先に相手を動かせるだけの脅威があったわけで、その脅威を適切に使えれば勝つことだってできただろう。

被害を受けたということは無力で弱かったからではなく、強くて驚異的だったことの裏返しでもある。

そのことに気づけば、合気道の形のように相手を動かす主体を自分に取り戻せるのではないだろうか?

合気道は最初から勝っている武道だ。だから、そういう考え方もできるんじゃないかと思う。

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合気道化師マツリくん
マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?