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映画やマンガで作者の見えない熱意が見える理由:合気道の「氣」の考察

ピカソがレストランでファンに頼まれてナプキンに絵を描いて「これを描くのには30年と30秒かかったから100万ドルね」と請求した、という都市伝説がある。

これは「氣」の話だ。
30秒で描いた絵にそれまで絵を描き続けてきた30年をどれだけ感じさせることができるか?

それが「氣」を出せるかどうか?100万ドル取れるかどうかってことなんじゃないかと思う。

完全なものから「氣」は出ない

おれが子供の頃、孤独な殺し屋が少女と恋に落ちていく映画『LEON』がとても好きだった。
調べてみたら今は『LEON 完全版』しか出回っていないらしい。販売会社は正気じゃないと思ったね。
おれは『LEON 完全版』はまったく完全ではないと思っている。(個人の感想です)

『LEON』は1994年の映画で、めちゃくちゃヒットした結果、『LEON 完全版』が発表された。
だが、これは作品という意味ではそんなに『完全』じゃない。

なぜ最初から完全版じゃないのか?

『LEON』は、少年のまま歳をとってしまったような中年の殺し屋と、すべてを失った少女の「純愛」がテーマだった。
が、ロリコン疑惑が持たれていた監督はふたりのベッドシーンまで撮影しようとしていたのだという。

当然ながら14歳のナタリー・ポートマンの親にがっつり止められたので、「わたしのはじめてを貰って欲しい……」とお願いするシーンみたいな名残だけが残されたが、それでも試写会では問題になった。

監督は「レオンと少女の純愛を理解できないのか!」と観客にブチ切れたらしいが……うーん。

この試写会を受けて映画『LEON』では
・「少女と一緒に依頼に出かけて人殺しの手伝いと練習をさせるシーン」
・「任務を遂行して少女とお酒を飲むシーン」
・「少女にベッドでせまられるシーン」
などの問題になりそうな22分間をカットして公開され、大ヒットした。

完全に見せることは完全か?

おそらくカットされてブチキレていたであろう監督はこの大ヒットをたてに22分間を追加して完全版として出したと思われる。

しかし、22分間を追加したことで映画の印象はまったく違うものになってしまった。
なんなら通常版の『LEON』はこのシーンがなかったからこそ、めちゃくちゃテンポが良く、そして大ヒットしたんじゃないだろうか。

結局のところ、監督が言いたかったことを全部をみせない方が『氣』が出ていたのだ。

多くの創作において、製作者の強すぎる主張はたくさんカットされてきた。
編集者やプロデューサーが想いが強すぎてバランスが崩れた部分をカットすることでその作品にこめられた『氣』だけを出すことに成功する場合がある。
強すぎる想いはちょっとくらい削った方が良い時もあるのだ。

見えないけど見えるもの

『デビルマン』なんかもよく似ている。『うる星やつら』とか『ドカベン』と同世代で少年マガジンで連載していたのに、信じられないぐらいバイオレンスに満ち満ちている。

なのに、それでもだいぶカットされていたということが後の自伝的なマンガ『激マン!』で明かされている。とりあえず少年誌では絶対やっちゃダメなことをたくさんやろうとしていたからなんだけどね……。

見せないから見える

逆にこういう氣を上手に使ってるのが『鬼滅の刃』だ。
本来ならもっとじっくり書くべきシーンをバッサリと切り取ることで深みが出ている。

ジブリなんかもそうで、宮崎駿は切り捨てるからアニメは良くなるのだと言っていたとか。
風の谷のナウシカの映画と原作を比べれば、そこらへんはよくわかる。

おれが解説したことのある映画『TENET』だって多分そう。
わざわざ全部みせなくても伝わる。もちろんちゃんと伝わるわけではないけれど、なんか知らんけどスゴいぞ!?ということだけは伝わるのだ。

それが「氣」じゃないだろーか。
あえて「見せない」ことで見えない物が「見える」ようになる。
そういうやつが、氣って呼ばれてて、誰でも出せるけど、それをちゃんと理解して使えるかどうかが難しいとこなんじゃないだろうか。

まとめ

ちなみに記事を書くときはいつも半分くらい文章をカットしてる。余計なことをいっぱい書いてしまうので。

氣というのは結局は伝わる人にしか伝わらない。

それでいいわけだけど、それが故に『氣』が出てるように見えて実はなんにも起こっていないこともあれば、『氣』が出ていてもほとんどの人が気づけないということが起こる。

良い悪いというわけじゃなくて、そういうモンなのだ。



以下、単なるオタクの早口だった為にカットしたところを載せてみた。
完全版だが、読む必要はまったくない


映画LEONについて

レオンはリュック・ベッソン監督のヒット作『ニキータ』でチョイ役で登場した「掃除人」という死体処理係がきっかけで誕生した作品である。
掃除人を演じたジャン・レノがこの役をめっちゃ気に入ったので監督にこの役が主役の映画を作って欲しいとお願いした。

監督は掃除人とかどうでもよかったので「脚本はかいてやるけど監督は自分で探せよ」といって引き受けたそうな。
ところが、つまんねーやつだと思っていたレオンの対比として少女を登場させたことで会心の脚本が完成し、監督はジャン・レノにいいニュースと悪いニュースを伝える。

「いいニュースは脚本が完成したこと、だが、悪いニュースはおれが監督をやるからこの役はしかるべき役を探す!」

控えめに言っても最低な野郎だ。

ところがデ・ニーロとかアルパチーノとかショーン・コネリーとかそういう往年の名優を使おうとしたけど、あんまりピンとこなかったため、最終的にはジャン・レノを家に招待し、脚本をプレゼントするという「いい話風」の演出で俳優は彼に決定する。

監督リュック・ベッソン、主演ジャン・レノ、女優ナタリー・ポートマン、敵役ゲイリー・オールドマンという今となってはめちゃくちゃに豪華な布陣であり、そのすべてのキャストがその才能をいかんなく発揮しているスゴイ作品だ。

ちなみにこの映画では中年のレオンが子供っぽい演技をしており、少女のマチルダは大人っぽい演技をしていて、10代前半で観た時は歳が近いマチルダよりもレオンに感情移入できた。

監督の脚本がロリコン目線だった分、ジャン・レノは演技でそれを中和させてみせている。
この映画は全員の良さがほんとにめちゃくちゃよく出てる。完全版はマジで蛇足。

デビルマンについて

デビルマンはとりあえず永井豪が天才的にイカれていることは当然として、忙しすぎてまったくブレーキを踏まずにつくられているのでもう少年マンガとしてはギリギリのギリギリのラインという感じがする。

後から色々と追加されたシナリオとか書き直されたシーンとかはあったりするのだけれど、何か知らんけど最初のバージョンの迫力がエグい。
テクニックとか絵のうまさとかそういう問題ではなくて、なんか出てる。

ただ永井豪が絶対にこのシーンを入れたい!と熱意を燃やすシーンは絶対に少年誌では入れてはいけないシーンだったりするので、そのギャップが非常に面白い。

鬼滅の刃について

鬼滅の刃で個人的にイチオシのシーンは鱗滝さんが炭治郎が鬼殺隊への入隊試験を突破して帰ってきた時に、抱きしめて仮面のはしに一粒だけ落涙するシーンである。

その前にアニメをぼーっと観て知っていたのに、マンガで改めてそのシーンを見た時にめちゃくちゃグッときた。
あのシーン、めちゃくちゃアッサリと描いているところが、スゴク良い。マンガでは落涙するシーンは一コマしかない。

鱗滝さんと言えば、世間では炭治郎にビンタかまして虐待しているシーンでよく知られているが、自分自身へ課している厳しさの重さが、たった一粒の涙で完全に表現されており、こまけぇ心理描写だの、丁寧なキャラクターの掘り下げなんかクソくらえというほっこりした気分にさせて貰える。

普通なら絶対に多くの人に気づいて欲しい落涙だけど、それを一コマだけ、しかもちょっとわかりにくく描くというのが憎い。鬼滅の刃は普通ならやりたくてもできないタイプの省略をすることで理解させる演出が多い。




おしまい

参考文献「レオン リュックベッソンの世界」



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合気道化師マツリくん
マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?