中心はどにあるか?【合気道と野生の思考】
『野生の思考』第三章「変換の体系」第四章「トーテミスムとカースト」から見えてくるのは人類のもつ基本的な性質だ。
レヴィ=ストロースはこれによって、未開人を下に見ていた過去の研究者たちに対する批判を行っている。
研究の落とし穴
研究者はわりとひとつの部族だけに絞って研究しがちになる。
その結果、実は周辺の部族がその部族と陰と陽のように対抗した関係にあったり、広い範囲で互いに関連しあっているという事実を見落とす。
要するに研究者がみているよりももっと大きな枠組みの中で各部族は生きていたわけだ。
なぜ交換するのか?
未開人は種を存続させる上で危険になる近親相姦が発生しやすいと思われがちだが、実は宗教や掟としてタブーを組み込んで数学的にも合理的なパターンで回避している。
例えば「獣の狩猟」「魚の狩猟」「農耕」「果実の採取」という生活拠点によって4パターンの民族がいた場合、どこかが魚が欲しくて魚の民族を滅ぼすと以降はどこも魚が捕れなくなってしまう。
そこで、まるでカードゲームのようにでそれぞれが被らないように札を交換しあう贈与や交換が発生していき、肉、魚、作物、果実がすべての民族に分配されるようになり、それを管理することで全体の均衡を保つシステムが生みだされた。
この形式で親族の交換も行われることで近親相姦も発生しなくなる。こうしたシステムを宗教や制度で行っていたのが未開人だったわけで、それは決して現代人と比べて劣っているわけではない。
一元の本質
合気道開祖は口述で「一元の本を忘れるな」という言葉を残している。
一元の本というのは「あらゆるものはひとつ」だということ。
合気道にある無数の型にしても、トーテミスムによって分割された民族にしても本質は一つなのだ。
部分ではなく全体こそが本来は重要なもので、ひとつになって循環していくことで安定して成り立つ。
「中心」を探そう
循環を生むためには中心が必要になるし、回転が生まれれば中心が確立する。ふたつがひとつになってはじめて安定する。銀河も宇宙も惑星もそういう風に回っている。
個人にも家庭にも、組織にも国家にも、それぞれの回転と中心があって、もちろん合気道の型稽古にも中心がある。いくつも型があるのはその中心を見つけるためであって、ひとつに固執するためではない。
そういうことを忘れて、バラバラになったトーテムのみに固執すればコマが回転しなくなるように中心も失われてしまう。
かつての未開人たちにとって中心とは「神話」だった。そして神話は現実の世界と同じ構造をしていた。だから自分たちも神話と同じものだった。そういうものが現代にはなくなってしまった。
地球平面説論者や陰謀論者は確かにアホだと批判さるかも知れないけれど「中心」がある分だけ団結しやすい。
みんな何か中心となるものを欲しているんじゃないか?
それなら合気道もいいよん。
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