無能の鷹のように生きたい
今日の札幌の最低気温は1℃。晴れて道路も乾いていたので朝からいつものように近くの手稲山にロードバイクに乗ってヒルクライムに行ったけれど、登り始めて1分で道路が凍結していてあきらめて戻ってきた。
今日の沖縄は最高気温29℃、最低気温25℃。今日はツールドおきなわが開催される予定だったのだけれど集中豪雨で中止になってしまった。ホビーレーサーたちが集まる日本で一番大きなアマチュアサイクリストのためのレースで、この日のために多くのアマチュアレーサーたちは必死にトレーニングを続けている。趣味というにはあまりにストイックな行為。コンディションのピークが乱れるのでこのレース以外には出ないという人たちもいる。そんな一年に一度のレースが中止。この日のために準備してきた彼らの気持ちは察するに余りあるけれど、長く生きていれば、とそんなこともあるだろう。コロナ禍は過ぎ去ってみれば何でもなかったような気もするけれど、多くの命を奪い、あの3年間に青春時代を送った人たちは、私たちの多くが経験してきた部活動や学生生活の多くを経験できなかった。そんな風に私たちは自然やウイルスや、その他のなんやかんやに翻弄されながら生きていくしかないのだろうと思う。
ネットでニュースを見ていて気になったワード「無能の鷹」。漫画を原作にしたドラマのタイトルらしい。見た目はバリバリのキャリアウーマンだけれど実は衝撃的に仕事ができない女性が主人公のドタバタコメディということ。サラリーマンの多くは「無能の鷹」と聞くとドキリとするのではないだろうか。
山月記で虎になった男のように、私たちは、自分の無能さに怯え、自分の能力のなさが露呈する状況を恐れている。職場でそんなことが起きたらこの世の終わりだ。世にはばかるパワハラ上司のほとんどは、自分の無能さを指摘されないように攻撃は最大の防御とばかりに部下を攻撃する。部下を攻撃して自分の得意分野の中で仕事をすることで、自分の無能さを露呈するリスクを最小化する。パワハラ上司は、自分の不得意な分野かつ部下が得意な分野で仕事をして「この人こんなこともわからないのね」と部下に思われることを恐れているのだ。私もその気持ちはよくわかる。自分の無能さをわざわざさらけ出したい人なんていないだろう。
それでもマネジャーをやっていると実感するのは、部下の多くは、彼らの得意分野においては私よりずっと知識も経験もあり、ずっと有能であるということだ。得意分野において彼らは私よりずっとうまく、仕事をすることができる。
その事実を受け入れられるか。
それを受け入れられない人は、自分の得意分野に彼らを引きずり込み、部下の無能さを指摘し、自分のプライドを保とうとする。それは立場上、上司だからできる「ずる」でしかないと私は思う。そしてその行為は全体のパフォーマンスを落とす、組織にとって何の意味もない行為だ。
自分の無能さを受け入れられるか。それがマネジャーに問われる一番の能力だと私は思っている。
私は無能だ。少なくとも自分の右腕になってくれる優秀な部下の得意な分野について、私は彼の足元にも及ばない。私は心からそう思っているし、それは客観的な事実でもある。もっと言えば、なぜ私がこんな優秀な人たちを束ねるマネジャーとして仕事をしているのか、本当に不思議な気持ちで日々仕事をしている。自分がいなくても、彼らがいればこの組織はうまくいくと思っている。それなら私の役割は何なのかと言う話になるけれど、そんなことは自分で問う問題ではないと思っている。
私の役割は私が決めることではない。何か役割があるのかもしれないし、何の役割もないのかもしれない。自分の立場や役割をつくろうとする人たちがパワハラ上司化し、組織のパフォーマンスを下げていく。別に自分の役割なんてどうでもいいと思っているくらいがちょうどいいと私は思う。
他者を傷つける爪をもたない無能の鷹として悠々と職場の上空を飛んでいるマネジャー。そんな風に働くことができたら、私も部下たちも幸せに働くことができるのだろうと、私は思う。