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20230624 山笠 ふりだしに戻る
昨日、久しぶりに博多にきていることを書きました。そして、本日博多祇園山笠の準備段階をふらふら見学し、博多駅から天神の範囲をノートパソコンと一眼レフカメラ(2.8ズームつき)を背負って歩きまわって、疲れて新幹線の待合室でこれを書いております。
博多に来る前は、いえ来た後も「この祭心理学NOTEをしてきてそれなりに知識も増え、山笠以外の祭も知ったうえで、何らかの新たな視点で山笠をみたり、研究につながる知見を新たに読み取れるようになっていたりするはず!」と信じておりました。
しかし、そんなことはもうまったくもって何もなく、博多にいたころに山笠の準備段階を見ていた時と全く同じような感動と感想しか得られませんでした。
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これは、準備段階とはいえ「祭」そのものを目の前にしているので、それに飲み込まれてしまった思考停止しているだけであるという面もあるのでしょうが、正直もう準備段階についてはこれまで何度も何度もみてきていて、そう「新たな体験にびっくりして我を忘れる」ようなことはありません。むしろ正直なところ「やっぱりこうだよね~」という予定調和を再確認しているにすぎません。そういう意味で、今回の博多行になんの意味があったのか…と言われると正直ちょっと困ってしまいました。
ただ、今回の博多行に博多にいたころと全く違う体験を求めていたこと自体が完全なる考え違いで甘い考えだったのだろうと思います。これまではただで日常的にみることができていたものを、お金と日数をかけて見に行ったからと言って、違うことが見えるはずがありません。オープン記念でただで食べられたラーメンを、今度は自分で自費で食べに行ったからと言って、味が二倍も三倍もおいしく感じたらそりゃおかしいだろうというわけですよね。
そもそもの問題は、せっかくお金をだして博多に行くのだから、これまでと違う何を見たいのかを明確に決めて出かけられなかった自分が悪いのですよね。観察をするときに先入観を持ってみると色眼鏡でみることになるので、なるべく何も考えずに目の前にあるものを見てそれを記録しようと心がけていたのも確かです。でも、けれどもそれでは結局、これまで何年も同じものを見てきたのだから、見方が同じであればみえてくるものも同じなのですよね。
ある意味、今回の博多行は「インドに行けば人生観が変わるかも」みたいなお気軽な求道の旅をしてしまい、それで人の死体をみていっぱしに何かを得たように思って何も得ていない旅人と同じようなものに終わってしまったような気がします(行ったことないけど)。
まあ、それを理解して、「今のままを続けていてはだめだ」を痛感するために、こうして博多に来るという「うまく行かなった場合に素材のせいにして逃げられないほど良い素材に触れる機会をつくった」のにうまくいかなかったことで、悪いのは自分であることを目を背けずみつめることができたのは良かったのだと思います。
ということで結局何にも変わらないふりだしに戻ってしまっただけですが、今からどこに向かうこともできるわけだし、サイコロ降って歩みだしたいモチベーション自体は持ちまくっているので、あきらめず頑張りたいなあと。