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20230319 子どもが主役となる祭とは?
これまで二日にわたって清凉寺(嵯峨釈迦堂)のお松明式を見に行ってきたことについて書きました。
https://note.com/matsurishinri/n/n624267c46a27
https://note.com/matsurishinri/n/ne59e6f117b3e
そしてこの祭をみて,タイトルにある「子どもが主役となる祭」に関する考えが少し変わったというか新たな視点を得られた気がしたのでそれを書いてみたいと思います。
これまで私がみてきた祭のほとんどは,祭の参加者,見学者いずれにおいても子どもより大人の方が多いものでした。少子高齢化の問題は長年解決することなく,2022年の出生数が80万を切ってしまったような現代で,それは当たり前のことだと思います。
しかし,これは証明できないのですがお松明式では小中高大の子どもや若者の姿の方が年配の方より多かったと思われて,昨日の動画で音声のある方などを聞いてもらうと分かると思うのですが,松明が点火した時の若者たちは「ノリノリ」でした。
これだけ多くの若者が集まってきていたのは,出店(夜店)が多かったのがまず大きいのだと思います。基本的に祭の時にしか見かけられない出店を友だちと一緒にわいわい楽しむ,しかも,いつもなら家にいなければならない夜に堂々と外で友だちと遊べる…これはやはり子どもにとっての「ハレ」体験なのだと思います。
ただ,私はこれまでこのような「出店中心の祭」は「祭事ではあるけど神事がないイベント」であるとして,「祭への参加ではない」として関心を示していませんでした。博多の祭りで言うと,博多祇園山笠や博多松ばやしには関心があるけど,松ばやしを包括する博多どんたくにはあまり興味がなく,筥崎宮で行われる出店中心の放生会や十日恵比須神社の十日恵比須にもあまり関心がなかったです。
そういうこともあり,「祭への参加」「祭への関与」の度合いを主観的に判断してもらって数値化してもらう時,イベント的な祭への参加や関与の点数が高い場合,「イベントの観客って参加や関与と言えるのか?」と疑うというか「違うだろ?」と思い,どうにか分けて測定できないかと悩んでいました。
しかし,お松明式をみていると,観客の若者は当然ながらお松明の準備などに一切かかわってはいませんし,お松明の強い火の前にわーきゃー叫んでいるだけなのですが,お松明の火を間近に浴びて,ダイレクトに「参加」しているのですよね。
これを,京都の三大火祭りである「送り火」「鞍馬の火祭」「清凉寺のお松明式」の比較で図示してみたいと思います(鞍馬の火祭はみたことがないので勘違いが合ったらすみません)。
送り火の場合,「神」である火を直接見ることができますがその距離はたとえすぐ近くの山の麓からみても遠く,「参加」「関与」している感覚は山で実際に焼いている人以外はまずないと思います。
![](https://assets.st-note.com/img/1679222441451-1cLHb4YTVI.jpg)
そして鞍馬の火祭に関しても,「神」である火は参加者の手にあり,それを間近でみても「自分は参加者ではない観察者である」感が強くなり,「参加」「関与」の感覚はやはり観客には出てこないと思います。なんというか,「神」である火に触れることができる特権性を参加者が持てば持つほど,それを見ている人は「参加はしていない」「関与はしていない」感が高まるのではと思います。
![](https://assets.st-note.com/img/1679222453507-0KPLWGDvJV.jpg)
しかし,「清凉寺のお松明式」の場合,提灯を持って練ったり火をつけたりする人はいますがそれはあまり前景に出てこず,観客は間近でダイレクトにお松明の火を受けることができます。そういう意味では一番「神様を間近に体験できる祭」になるのかもしれません。
![](https://assets.st-note.com/img/1679222464898-gsXTKYWqMP.jpg)
このあたり,以前読んだ日本と中国の祭の比較で,日本の祭がコミュニティを前提としているのに対し中国の祭が神と家族の直接契約であることの対比に似ているなあと。そう思えば,護摩木に家族の名前を書いてそれを燃やしてもらうのも「コミュニティを介さずに直接神様にお願いしたい」という心の表れなのかもしれません。
そして,「清凉寺のお松明式」では本堂の中で涅槃会の読経などが行われましたが,それをこの炎の横などで行い,簡単なお経などをその場でいる人全員であげたりすると,それはすごく参加や関与の感覚を高めうるのではと思ったりもしました。
やはり私が検討したいのは送り火や鞍馬の火祭などに参加することで社会性を発達していくプロセスなのは確かなのですが,「準備など関係なく当日参加でも「神」を感じ参加し関与できたと思える祭」を子どもが体験することの意義や影響なども検討してみたいなあと。
そんな新たな発見というか新たな視点を得て,興奮した気分でそのことを話しながら師匠と清凉寺を去ることに。私は河原町に戻る必要があったので嵐電嵐山駅に向かったのですが,帰り道の参道には同じく帰る家族連れが一杯で歩くのがゆっくりになって面倒でしたが,その後大きな交差点に出るとほとんど人がおらず,嵐電嵐山駅までの道の店は全部しまっていて歩く人もほとんどいませんでした。
これは「遠くから見に来た人は少なく,清凉寺の近くに住んでいる人たちしか来ていない」,「地域に根差した祭で,若者も見学に来ている」ことを意味していると思います。このあたり,博多の旧冷泉小跡地で行われる「ほうげんきょう」の見学者の少なさと比較してその理由がわからないのでそのあたりの比較もできたらいいなあと思いました。