20230228 創造と自己表現と祭の関係
今日は定期の関係で自宅の作業となってしまいましたので、また論文を読めず何の根拠もなく自分の考えを書くことになることお許しください。また、BGMに中島みゆきさんの『帰れない者たちへ』と『命のリレー』を聴きながら書き始めたのでそれに引きずられた内容になることをお許しください。
先日とある文学館を見学すると、その地域で発行されている文芸や詩や俳句や短歌の同人誌が閲覧できるコーナーがありました。もうネットでの公開が非常に簡単にできる時代なので、紙質やレイアウトなどの「製本」にこだわる人が個人誌を出すことはあっても、この手の「会員が自作を掲載する」形式の同人誌はほぼなくなったのかなあ?と思っていたので、結構な数の同人誌が存在していることにまず驚きました。
作品で有名になるためには有名な商業誌に載るなどの行幸を得られない場合はネットに公開した方がまだ可能性があると思うので、会員の同人誌で作品を発表するのは「会員同士での意見交流をしたい。」という動機づけが強いのかなあと思います。
で、それとは別に「文学館に同人誌を送る」という行為は、「自分たちの作品を後世に残したい」という動機づけなのだと思います。
「自分の作品」「自分の名前」「自分が生きていたこと」を後世に残したいという欲求について心理学ではgenerativityで検討されてきたと思いますが、なんとなく「しっくりこない」なあと感じています。
この祭心理学NOTEで、祭を継承していく動機づけとしてgenerativityの概念をよく引き合いに出していて、それはすごく「しっくりくる」のですよね。「祭」という「自分とは違う物」を継承していくというのは、generativityの訳語の一つの「世代継承性」という言葉に非常にあてはまる気がします。
しかし、「自分が生きていたこと」を後世に残したいという動機は、「自分と同じ遺伝子を持つ子ども」を生むことで「自分を似た者」を残すことで「自分的な物」が残っていくことを期待することであり、「generativityの動機づけが高まる前提条件」であり、「generativityそのもの」とはちょっと違うように思えます。
同じ遺伝子を持っていても育った環境によっては親子でも全然性格が違う可能性があるのは確かだと思います。まして個々人が「創造するもの」は親子でも全然異なるでしょうから、「自分の作品」を後世に残すためには子育てはあまり有効な手段とはとらえられないと思います。
ここまで書いてきた「しっくりこなさ」について、回帰分析の比喩で説明してみたいと考えます。
前の世代を継承し次の世代につなげていく、何代何十代何万代につながる行為は人類や命をつないでいくリレーであり何らかの方向性を持つものであると思います。この現象については、散布図と回帰直線の関係で例えるとわかりやすいのかなあと思います。
自分を散布図の一点だとすると、自分の少し離れた、回帰直線に沿った方向に別の点を打つことで、回帰直線をより確かなものにしていく、というのが自分の子孫を繁栄させていくことによるgenerativityの感覚なのかなあと思います。
しかし、文芸などの作品を作りたいというのは独自性やオリジナリティへの動機づけなので、ある意味「自分の子孫にはまねできない自分だけのものを作り残したい。」という動機で、散布図で考えると「たった1点で回帰直線の傾きを大きく変える外れ値になりたい」という動機づけに近いと思います。
と、ここまで書いていったん休憩してから気分転換に先輩からいただいた資料を読んでみると、generativity尺度にはこれまで「世話」や「世代継承性」などの下位尺度とともに「創造」が含まれることが多かったけれども、今後の共同研究では「創造」を省いて「世話」と「世代継承性」に注目した方がよいのでは?ということが書かれていて、それを読まずこれを書いてきた私の立場is何?となってしまいました(笑)。まあでも、同じ関心で共同研究をしようとしているのですからそれぞれが独自に考えたことが同じになるのはある意味よくあることだと思いたいなと。
では「創造を残したい」という動機づけはgenerativityから分離して検討した方がよいのというと、「創造した業績を残すためにより残されやすい媒体で発表したい。」という動機づけの存在がgenerativityに関連するのではと思っています。
「後世に自分の創造した作品や業績が残る可能性」を高めるためには、自分の作品が載った媒体自体が世間の認知度を高め長い間保管される可能性を高めるようなモチベーションは高まるような気がします。研究の場合、よりIFの高い雑誌に載せたいというのはポストや研究費獲得のためという実利的なメリットが一番大きいでしょうが、「有名な雑誌に載れば、載るような優れた研究ができれば、より将来まで自分の業績が残りえるのでは。」という思いもあるのではと思っています。そして、「自分の研究が載った雑誌を発行している学会がよりよいものになるように学会のお仕事引き受けようか。」みたいな心理はgenerativityになりうるなあと思っております。
で、最後になってようやく祭との関連について書きますが、祭とgenerativityの関連を考える際に、「祭を次の世代につないでいく」、「次世代の世話」という感覚が祭の中で起きることは確実だと思います。
では、独創性の部分は祭とは関係がないのか…といわれるとそうではなく、「より今後に残るような伝統があり有名な祭に関与したい」とか、「伝統的な祭に自分が加えた変更などを残したい。」という動機づけも存在するのではないかなあと思っています。そうした動機づけが存在するからこそ、伝統的な祭に引き寄せられる人が多いのではなどと思っています。
このあたりについてはもう少しじっくりちゃんと文献をもとに考えてみたいですがメモ的な物としてこの状態で挙げさせていただきます。