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20230308 祭における神様の「違い」

 祭によって地域がまとまることに関する研究は多数存在し,その効果に祭の種類や内容が関わりうることにも共通理解があると思います。しかし,「神様の種類や内容」が関連することを検討した研究というのはなかなかない気がして,私は今日読んだ以下の論文が初めてでした。
 
保坂泰彦 2017 地域神社の祭神と集落の結集についての試論 : 秋田県男鹿市渡部神社を事例として. 常民文化(成城大学常民文化研究会), 40, 115 – 125.

 まず,論文の概要について説明した「はじめに」を引用させていただきます。

 秋田県男鹿市に渡部村という集落がある。この村は渡部斧松が藩の許可を得て 1825(文政8)年に、建設をはじめた開拓村である。現在は 300 戸あまりの集落となっているが、村の人たちは、四月の例大祭には神として祀られる斧松公に感謝し、村民総出の祭礼がおこなわれる。一方、渡部村から北へ10キロメートルほど離れたところには、1897(昭和11)年に県営の開拓事業として誕生した玉ノ池集落がある。県内から入植者を募集し、40戸の集落として始まった。この集落では、立村とほぼ同時期に創建された「神明社」(祭神は天照大御神)がある。過去には祭礼のときに子供神輿が繰り出し、夏は盆踊り、冬はなまはげと集落での行事は活発におこなわれていた。しかし、2015 年時点で、形式的な神明社の祭礼以外、行事はすべておこなわれておらず、共同体としてのまとまりが低下していると思われる。集落のもつ共同体としてのまとまりを結集と表現すると、渡部村には結集する力があり、玉ノ池にはその力が失われつつあるといえる。
 開拓村として似たような成立をもつふたつの集落の間に、どうしてこのような結集の力の差が生じているのかは、大きなテーマであると考える。そのテーマを考える前段階として、この小論では、渡部村を事例として取り上げる。人が神を祀るという行為の分析から、祭神が結集力に大きくかかわることを明らかにしたい。

 後半に書かれているように,この論文では結集(まとまり)のある渡部村の事例であり,玉ノ池集落との比較から「まとまりができる要因」を理解することはできないのですが,渡部村の中でも「継続している祭」と「終わってしまった祭」があるようで,その対比からもいろいろ学ぶことができました。
 
 かなり乱暴にまとめてしまいますが,渡部村を1826年に開拓して発展させた偉大な人物である「渡部斧松」を人神として祭った「渡部神社」の祭に関していえば,生後100年の1954年の記念祭や生後150年の2005年の記念式典も盛大に行われ,その祭は継続しているようです。
 しかし,その斧松さんが村の氏神として選んだ「水の神」は「今木神社」に祭られているけれども,祭が行われていたのは1979年ころまでであり,現在では行われていないということです。
 
 この2つの違いは何か?について私が感じたことを書いてみたいと思います。まず,「渡部神社」で渡部斧松氏を神様として祭ることが盛んにおこなわれているのは,今の村の基礎を打ち立てた始祖であるという「村民アイデンティティのよりどころ」であるからだと思います。早稲田の関係者が大隈先生を,慶応の関係者が福沢先生をあがめるのと同じような感じなのかなあと思います。

 対して「今木神社」に関しては,論文中では治水が進み「水を守る」ことが不要になったため,水の神様を祀る必要がなくなったなどの理由が説明されいました。ある意味,「祭をちゃんと奉納することで干ばつや水害などを避けないと。」という恐れや畏れがなくなってしまえば,祭は神事ではなく祭事となって必要性がなくなっていくのは確かだと思います。

 あと,「あっち立てればこっち立たず」という言葉があるように,「渡部斧松氏の祭」が盛大になればなるほど,他の神様の祭は縮小していくのもまた確かかもと思いました。このあたりの心理は認知的不協和理論で説明できそうなのですが,認知的不協和に詳しい人が「認知的不協和理論はすごく誤解されていて正確に説明できている人は少ない。」と言われていて,確かに私もあまり理解できていないのでちょっとここで説明を試みるのはやめておこうと思います。

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