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20250110 祭で生まれる「愛」
1月10日、西宮神社の開門神事で今年の福男が決まったようですね。朝6時に走り出す開門神事と朝4時59分に舁き出す博多祇園山笠もどっちも「速さ」を競う祭だなあと。
開門神事や山笠のような明確な「タイムレース」になっている神事はそこまでないと思いますが、祭というのはタイム以外にもやはりいろんなところで比較されてしまう側面があると思います。
開門神事の場合、競争の主体は個人なのでこれはもう個人の基本的運動能力とコースに合わせられたかの時の運の要素くらいしかないので問題は単純だと思います。
しかし、山笠やだんじりや神輿などの、「各祭集団がそれぞれの山やだんじりや神輿などをつくり同じルートで同じような舁いたり曳いたり担いだりする」祭の場合、神事なので比較や競争という視点はあまり持たないようにされているとは思うのですが、観衆の反応で目の当たりにされてしまう側面はあると思います。前の神輿では大きな歓声と拍手が上がったのに、自分の時には普通の拍手のみだった…とかするとしゅんとなってしまう面もあるかもなあと思います。
祭の集団が主に地域のつながりなどに基づく自然発生的なものである以上、その集団の人数や資金力や祭の準備や練習にかけられる時間などに大きなばらつきが出てしまうのは確かだと思います。
しかし、では「今の集団を抜けて拍手などが多い大規模で盛んな集団に移動したい」とか「小さい集団だから参加をやめたい」といったような声というのはあまり聞かないようにも思えます。
それは地域に根差したものだから簡単に引っ越せないから仕方ないでしょう、という理由が大きいとは思うのですが、どんな子でも我が子がかわいいようにどんな状況であれ自分のところの祭集団とそこの山笠やだんじりや神輿などが「他より最高なもの」と思えているのだろうなあと思います。
「A村は参加者1000人、B村は参加者500人」とかなると数値的には明らかにA村が勝っていますが、おそらくB村では「こちらは手練手管の少数精鋭!」と思えそうですし、A村が難易度の高い技を実施した時は「こっちは伝統的な技をそのきれいさを追求して実施する」みたいな感じで行うのだろうなあと思います。
このあたり、認知的不協和の理論で考えると、自分の所属集団の祭への愛があるからこそ、その愛に合致する協和的な情報である「自分の所属集団の祭の良いところ」を集めるようになり、そうして良いところを探すことを繰り返すことで自分の所属集団の祭への愛がさらに高まっていくのだろうなあと。
学生だけでなくそこで働く教職員も「お金のある高偏差値大規模大っていいな~」と正直思ってしまう面はありますが、祭集団に倣って自分の大学への愛を高められるようにするとよいのかな~と思いました。