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20230506 「どんたく=博多松ばやし+博多通りもん」なのか?
昨日,博多松囃子の開催時期を歴史を追って調べてみました。これは再掲すると山笠ナビさんと益田啓一郎さんの以下の論争(?)がきっかけとなっております。
「博多どんたく」がよー分からんっていう人にざっくり適当に解説すると、長い歴史があるけど、江戸時代、正月に偉い人の所にみんなで「年始のお祝いに来ました」って訪問して、踊りとか音楽を披露したのです。(いわゆるこれが博多松囃子)。
— 山笠ナビ編集部 (@yamakasa_navi) May 2, 2023
で、そのお祝いにかこつけてその後ろを歩く人たちが。
↓
博多松囃子の解説、ちょっと違うと思うよ。通りもんとごっちゃになってる…。
— 益田啓一郎 (@mapfan7) May 2, 2023
基本的には山笠ナビさんが行った「どんたくの歴史の概観」に対して,益田さんがされた「松ばやしと通りもんをごっちゃにしてないか?」という指摘をみて,私自身「確かに松ばやしと通りもんをわけて考えないといけないなあ」と思ったからでした。
これは現在のどんたくが「松ばやし」「通りもん」「パレード」がそれぞれ独立していて,「松ばやし」と「通りもん」はそれぞれ福博の町を巡りますがそのルートは全く別であるという状態をみているからだと思います。
だからこそ「松ばやし」と「通りもん」は全く別のルーツを持ち,「通りもんの発展としてどんたくができ」,それに松ばやしが合流したと私は思っていました。
しかし,文献にざっと目を通してみるとそれは全くの誤解だったと思われました。
このあたりすごく複雑なので歴史系が苦手な私がまとめるのは逃げ出したいのですが,でもこの手の視点でまとめられた文章がないので,井上清三 1984 どんたく・山笠・放生会. 葦書房.の記述を元に以下の2点を調べてみたいと思います。
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【疑問1】三福神と通りもんの行動が分離したのはいつか?
【疑問2】通りもんに一般市民が参加し出したのはいつか?
まずは,【疑問1】三福神と通りもんの行動が分離したのはいつか?についてですが,最初から答えが「答えはなし」なのが残念ですが,おそらくかなり昔から「要所要所で一緒になることはあったけど別行動だった」ようです。
上掲書のp.46「松囃子の行動」で福岡城に入る順序としては「福神,恵比須,大黒,通りもん,稚児」であったようですが,城を出た後,三福神と稚児は所定の神社,寺院,年寄り宅を巡るけれども,通りもんは知人の家で芸を披露したとあるので,一緒に行動するのは少しだけであとは別々であり,「三福神と稚児は公的」な感じであるけれど「通りもんは私的」という役割分担はその頃からあったようです。
ただ,残念なのがそれがいつの時代なのかは本文からは読み取れません。
また,上掲書p.50にはどんたくと松囃子と通りもんの区別に関する以下の記述がありました。
博多のひとがどんたくを口にする場合「あしたはどんたく」といえば,祝日の休みであることを意味し,また行事そのものを指す。「どんたくが通る」といえば,山車や曳台,さては仮装など,松囃子を除く「通りもん」のことをいう。
これは確かにそうなのではと思います。そしてそのような区別を挙げた上で,一般的に「どんたく」という言葉が新聞などで使われるようになった時期として,上掲書では明治20年代を重要な時期としてみています。
明治二十年代の後半から新聞紙上に「どんたく」の文字をみること。博多のドンは明治二十五年からなどを根拠として,私は明治二十年代の中ごろから,どんたくが松ばやしと関連して,博多に定着したと解釈している。
(中略)
こうした日が松ばやし以外にも休日となるのがうれしくて「どんたく」と呼んだ。松ばやしは稚児,三福神を主体とし,どんたくは曳台など通りもんが主体となった。
(中略)
このように松ばやしとどんたくは日を異にしておこなわれたが,繰り出すのは両日とも稚児三福神と通りもんであり,のちには区別することもなくなり,次第にどんたくの名が表面にでてきて,松ばやしはどんたくの中の一行事のようになっていった。
これまでの記述をまとめると,おそらくかなり昔から松ばやしと通りもんは別々に動いていたが,松ばやしが公的,通りもんが私的という役割分担が昔から存在していて,松ばやしの方が上,優先,的な関係性が存在していたように思えます。
しかし,明治二十年代以降に「どんたく」という名称が出てきたころから通りもんの人気が高まり,それらの活動が高まる中で市民の意識は通りもんの方に集中していき,「どんたく」という名称が多く使われるようになっていった,といった関係があるのかなあと。
なんだか書いている自分が一番わけがわからなくなりましたし【疑問2】についてはまだ調べ始められてもおりませんが,一度ここで挙げておいて後日知見がまとまってくるのを待たせていただきたいと思います。