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20221208 SSTとしての祭 夏の祭を読んで

 祭心理学という名前でNOTEを始めておおよそ一か月,これまではCiNiiで「祭」を検索ワードで出てきた論文で興味を持ったものを心理学であるかは関係なく眺めてみてその感想を書く形式でやってきました。それは楽しい経験で色々と知見は広がったと思うのですが,なかなか「祭心理学」として収束する気配がみえないので,このあたりで「祭の心理学」に絞った文献研究をした方が良いなあと思いなおしました。
 そこで,同じく祭心理学という名前でしているTwitterでこれまでほんの少しの説明をつけて紹介するだけで終わっていた祭に関する文献を読み直し,このNOTEで紹介しなおすことにしました。そこで最初に読んだのは…おそらく日本で最初の祭の心理学の研究であろう以下の文献です。
 
姉崎正治 1912夏の祭. 心理研究, 2(9), 217 – 226.

 
『心理研究』は現在の『心理学研究』の前身の雑誌の様ですが,その2巻が1912年で110年前なのですね~あと,掲載誌が「2巻9号」ということは,年に9回以上発行されていたのは確かなので,月刊誌だったのかもしれませんね。
 110年も前のものなので内容的には前時代的なものなのかな~と思って読むと,

 其の祭の形式は主として人間の模倣性から出て居るものであります。此の模倣性に就いては後に詳しく御話する考へであります、猿の人眞似と云ひますが、物眞似をするのは獨り猿だけではない。人間はお互に人間の眞似をしあつて生きて居るのであります。植物の繁殖する活溌な有様を形に現して、これを擔いて歩いた。これが今日殘つて居る祭であります。

などの記述に,人が行う「模倣」という行動で祭を説明するのはすごく心理学的だなあ!と関心させられました。しかし,模倣の対象となるのは私が想定していた「年配者や先輩」ではなく,「信仰の対象そのもの(神様や植物など)」であると記述されていました。ぱっとみで目についたところを引用しておきます。
 

 日本の芝居は神樂から出て居るものであります。神樂は神様のすることを人が再現するといふことから出て居るので、矢張り眞似であります。詰り我々の先祖が生ぶな考へから、草木は吾々人間と其霊を同じうして居るものであると考へて、これを芝居にうつた。この芝居が今日祭となつて殘つて居るのであります。(p.220)

 總ての祭は、また人間の模倣性から出て居るものと見ていいのであります。もともと人間はお互に眞似をしあつて生きて居るのである。私が斯うして御話をするのも、諸君が私の云ふことを間くのも、詮じつめて見れば、皆眞似であります。人間が衣服を着るのも矢張り一の眞似である。一々眞似て居ると云ふ意識は起らないでも、無意識に眞似をして居るのであります。また其處に人間の共同生活と云ふものが成立つて行くのであります。昔から雨乞と云ふことがある。或る地方では木に登つて、柄杓で水を降らず眞似をする處がある。これも、さういふ眞似に依つて天地の變化を生むことが出來ると考へて居たのであります。(p.221)

 これは,当たり前といえば当たり前とも思いますが自分はあまり持っていなかったし…だったので,祭の起源などについて調べた民俗学的な研究でどのように書かれているかを確認しないといけないなあと思いました。
 
 模倣と聞いて最初に思ったのは,「ああ~モデリングかあ~確かに心理学っぽいな~確かに正統的周辺参加などの基礎としてモデリングは重要と思うので,祭の中の学びをモデリングなどでまとめ直すのはよいかもな~」でした。そして,「SSTの装置としての祭というのは近々絶対まとめるぞ~!」などとも思いました。
 しかし冷静に考えたらこれが書かれた1912年にはまだバンデューラのモデリングなどの理論も存在していなかったわけですね~。そんな時代において現代でも「心理学の独自性を出せる検討の視点」として有意義であると思われる模倣について指摘されたのはすごいな~と感心しきりでした。姉崎先生を「祭」してなんとか論文にまとめたいなと。

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