#51 君たちはどう踊るか
歳暮や中元として、松尾ジンギスカンのセットを贈ることが多い。「松尾さんのご実家ですか?」「実家だったら今頃社長だったのに」と話が盛り上がる。
年賀状の季節でもあるが、数年前から年賀状を書くのはやめている。大抵の人とは電子媒体で繋がっているので、改めて紙媒体で挨拶をする事に意味が見いだせなくなっている。
少し前に、昔ながらの慣習とか伝統への向き合い方について考える機会があった。地方にはその土地ならではの祭りや行事があって、少子高齢化、過疎化の中でそれら伝統行事を維持できなくなるケースは多い。価値観の変容も伝統行事が衰退する因子のひとつである。
私の暮らす奄美大島の小さな集落でもそれは同じだ。奄美の各集落では、旧暦八月にイネの収穫を祝って踊られる「八月踊り」という踊りがある。集落ごとに唄も振り付けも違っていて、それが集落のアイデンティティーにもなっている。ところが少子高齢化で、集落独自の踊りや唄の伝承が困難になっている。現に近隣のある集落ではすでに独自の八月踊りは消滅してしまった。
「消えて行くものはしょうがない」「伝統は引き継がなければならん」「伝統だからって引き継がなきゃいかんという事はなかろう」と、大方このような議論が為される。しかし結論も出ないまま何だかモヤモヤとした気持ちで、練習会だけが細々と続いている。
「何のために行うのか(Why)」と、「どのように行うのか(How)」を同じ階層で話すので埒が開かない。「イネの収穫を祝うため」というWhyに現代的・感情的な必然性があるのなら続ければ良い。あるいは新たな現代的意義を見出すことも可能かも知れないし、その方が価値的かも知れない。「イネの収穫を祝うため」という答えに意義を見出し、じゃあ伝統を繋いで行こうという結論が出た後で、じゃあどうやって続けようかとHowの話になる。伝統継承の話では多くの場合、WhyがなおざりにされてHowに焦点が当たりがちだ。伝統として伝わってきた「How」は、あくまでもWhyを実現するための過去の参考事例である。温故知新の「故」に当たる。なので問題は現在の環境下で「Why」をどのように表現するか、温故知新の「新」の部分をどうやって生き生きと現代的価値の中にアクティベートしていくかという事だ。
「若い人たちの関心がない」との声もある。それは「Why」の現代的な解釈と表現をなおざりにして来た結果である。「伝統だから伝えなきゃいかん」という思考停止の使命感。昨日と今日では環境が違う。ましてや三百年前と今日である。今現在の環境下で祈りや祝福の気持ちをどうやって表現するのか。それはストリートで踊っている現代の若者たちの方がよく知っているのではないか。「君たちと同じように、三百年前の人たちもストリートでハッピーに踊っていたんだよ」と、伝えるべき事はそこにある。「君たちならどう踊る?」と。
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