#27 お葬式の事ばかりよく覚えている
お葬式の事ばかりよく覚えている。最初の記憶は生田原で暮らしていた曽祖父の葬儀である。私が4〜5歳の頃だ。葬儀は自宅でおこなう時代であった。酪農家の生田原の大叔父の家、つまり祖母の実家で営まれた。曽祖父がいつも足を伸ばして座っていた座敷いっぱいに弔問客が座り、幼い私は肩の上から父に押さえられるようにして座敷の隅で立っていた。隣にはイトコで一つ下のケイコちゃんがいた。
和尚の読経の最中、退屈な私は隣のケイコちゃんに何とかお兄さんとしての面目を立てる事ばかり考えていた。普段、家で兄から虐げられてばかりいる反動がこんな所で鎌首をもたげたのだ。お兄さんとして何かケイコちゃんに教えてあげられる事はないかと必死で数少ない経験を探った。ひとつ思い当たる事があった。垂れて来た鼻水を袖口で拭って放置しておくと、頬っぺたまでビヨーンと引き延ばされた鼻水が乾いてカピカピになってくる。そうすると頬っぺたが妙に痛痒くなってくるのだ。これは何としてもケイコちゃんに伝えるべき人生の注意事項である。お兄さんとしては責任重大なのだった。
和尚の読経が一瞬途切れた。チャンスだ。「ケイコあのな、拭いた鼻をそのままにしとくと頬っぺたが痛くなるからな」思いのほか私の声は大きかったらしい。葬儀会場は一瞬の沈黙の後、笑いの渦となった。和尚も吹き出してその先が続けられない。「馬鹿!」と父に嗜められたが、お兄さんとしての責任を果たした私が責められる所以が、私にはわからなかった。生田原から佐呂間への帰途、立ち寄った店で父が『あしたのジョー』の絵が描かれたハンカチを買ってくれた。
8歳の夏には母方の祖父が亡くなり、当時佐呂間神社の裏にあった妙覚寺で葬儀が営まれた。私は寺の名前を覚えるのが好きな風変わりな少年になっていた。葬儀と言っても子供にしてみればイトコたちが各地から集まる滅多にないイベントである。夏の盛りでもあり私たち子供は、厄介払いのように親から「お前たちはプールに行ってなさい」と言われて大喜びで遊びに行った。途中、すれ違った大人から「お前ら学校はどうした?」と咎められたが、「じいちゃんが死んで葬式だから休みだよ」と得意げに答えた。
10歳の冬には母方の伯父が亡くなった。亡くなる数日前、病院のベッドで伯父が「オジちゃんの腕、こんなに細くなっちゃったよ」と掛け布団から腕を伸ばして見せてくれた。私は何も言えず細くなってしまった腕を見つめるだけだった。それが伯父との最後の会話になった。伯父の葬儀は昔の桜橋のそばにあった大昭寺で営まれた。父がしきりに僧侶の読経の声が良いと褒めていた。良い読経はモンゴルのホーミーのように、低音と高音が同時に聞こえてくるものだ、というのが父の持論だった。
父方の祖父が亡くなった時には私は24歳の大酒飲みになっていて、就職先の仙台から一升瓶を土産に帰郷した。北見のセレモニーホールで営まれた葬儀は神式であり、神主が祭詞を読み上げた。その中で神主が、警蹕(けいひつ)と呼ばれる、腹の底からの「ウォー」という声を発する。隣で母が「クッ」と笑いをこらえて鼻を鳴らしたので私は母をつついて嗜めた。
10年前に父が亡くなり、北見のセレモニーホールで葬儀を営んだ。この時も神式だったがさすがに母は笑うことはしなかった。しかし「ウォー」という声が聞こえた時、明らかに20年前の祖父の葬儀を思い出した様子で神主を見つめていた。
その翌年には奄美の妻の父が亡くなり、奄美市内のセレモニーホールで葬儀を営んだ。1月の初めの葬儀だったが、実は年末には義父は亡くなっていたであろう事を家族ともに知っていた。昭和28年12月25日に奄美がアメリカの統治下から日本復帰を果たして60周年を迎えた翌々日の夜だった。病院のベッドの義父の枕頭のラジオからは、田端義夫が奄美を唄った『島育ち』が流れていた。その時、私たち家族3人は、義父の命がたった今尽きた事を感じ取っていた。しかし年末でもあり病院側の配慮で呼吸器を外すことはせず、年明けに、実弟が兵庫から到着するのを待って呼吸器を外された。出棺の際、私はホールにお願いして田端義夫の『島育ち』を流して貰った。
私は団体で地域の責任者をしている事もあって、誰かが亡くなればすぐに家族の許へ駆けつけて葬儀その他の手配をする。葬儀では私が導師となって読経をする事も多い。遺族に向かって導師としての挨拶もする。自分が暮らす地域の事なので、故人や遺族の事も良く知っている。なのである程度の形式を済ませたら、経本も挨拶文の原稿も横に置いて、故人を⚪︎⚪︎アニ、⚪︎⚪︎オバ、⚪︎⚪︎ちゃんと呼んでしっかりと遺族の今後の生き方に繋がる話をするよう心がけている。時にはセレモニーホールの担当者や遺族から、私が語ったことの原稿が欲しいと懇願される事もある。しかし原稿を見ただけではわからない、故人や遺族との繋がりの文脈の中で私は語っている。今、そのような場面で遺族の気持ちに寄り添う事が出来るのも、幼い頃からの親族の死を映画のように思い出せる事が、大いに資しているように感じる。
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