暮学と読書~子供時代の記憶から
母親の生前、彼女から幾度も聞かされていた話がある。
昭和40年代初頭に私を産んでしばらく経って、経済的に生活が苦しかったらしい。それを何とかするべくパートを探したらしいのだけれど、乳児を抱えている状況で雇ってくれるところが見つからなかったそうだ。近所に親戚縁者もおらず、子供を保育所に預ける金などあるわけがない。あったら働かんわ。そりゃそうだ。なんか今この時に至っても脈々と引き継がれている問題やんか。
それはそれとして。
結局、母親のとった行動がなかなかのもんやった。
当時1歳やそこらの可愛い私を「いないこと」にして、●●ルトレディーの仕事に就いたというのだ。
どういうこと?
勤務初日、腹いっぱいミルクを飲ませ、部屋の中にオモチャを並べ、部屋の扉を私が開けることのないようにして仕事へ出かけたそうな。
どのくらい仕事をしていたのかは知らない。仕事を終えた彼女は、私が1人きりなことに気づいて泣いているのではないか、ケガとかしていないだろうか心配なので、猛ダッシュで帰宅したのだと。
鍵を開けて中に入ると、家は静かだったらしい。
もしかして!っと、半ばパニック状態で私を閉じ込めていた部屋に入った。
そこで彼女が目にした光景は、オモチャを手にして一人ご機嫌に笑いながら遊んでいる私の姿だったそうな。
その姿を見て、母親は号泣したらしい。
ここまでの話なら、少しグッとくる方がいらっしゃるかもしれない。
この話のツボは、私が1歳やそこらの乳児だったことに尽きる。
しかしその後も、特に暮らしの流れが大きく変わることなく、母親は働き続け、私は1人で過ごす時間が多いまま歳を重ねていった。
ただの鍵っ子、少々筋金が入りましたけど・・・という子供になった。
苦労話ではない。これは暮学の話だ。
私が子供だったころの暮らしからにじみ出てきた「外側の事柄」が、どのように表れて、どう対峙して、学んでいったのかという話だ。
もちろん、当時に意識していたものではなく、今この時に振り返って思うことである。もちろん、多少の背びれ尾びれをつけてやるけれども
世の鍵っ子全てが、私みたいな調子ではないはずだ。千差万別、十人十色である。私の場合、とにかく一人の時間が多かった影響で、誰かから物事を教わるという時間が絶対的に少なかった。世の中、知らなくても左程困ることはない事柄は無数にある。ということは、左程困らないということは言い換えると、たま~に困るということになる。
小学校の頃は、とにかく文具品の用意に困ることがあった。
書道や図画工作で使う墨や半紙、絵具やクロッキー帳など、事前に用意しておかなければならない道具が揃わなかった。それは通常事前に学校指定のものを業者が売りに来て購入することになっている。しかし、我が家ではそれが上手いこといかない。なんせ金がない、私が母親に告げるのを忘れている、学校側は私が購入していないことを気づいていただろうけど、兄や姉の「おさがり」を使うのだろうくらいにしか捉えていない。いや、私は長男だ。
無理くり適当に揃えた道具、足らずは貸してもらったりして授業に臨む。
お母さんの絵を描きましょうだと?どうやって?
道具の使い方も分からないし、そもそも何故こんなことをしなければならないのか、何が面白いのかが分からない。見よう見まねでやってみても分からない。
私の文字や絵が絶望的にヘタクソなのは、この時の体験に由来するものだ。
結局、この頃に暮らしから叩き込まれたのは「世の中何が起こるか分からない」どころか、「世の中必ず何か起こる、しかも突然、何にも知らんことが」という諸行無常感だった。
一方で、突然目の前に現れてきて、ストンとハマった事柄もある。
それは、読書だった。
小学4年の担任だった村田先生が、とても本が好きな方で、授業以外の時間でも本の面白さを愉しそうに話されるのが印象的だったのがきっかけになった。その影響で、学校の図書館に通う時間が増えた。先生は小説の類を勧めていたけれど、図書館で私がハマったのは、アサヒグラフのバックナンバーだった。特に戦争や水俣病、イタイイタイ病などの写真を何度も繰り返し眺めていたことを覚えている。自分自身に知らんことが色々と起こるのに、怯えや疲れを感じていたけれど、もっと悲惨で大変な目にあっている人たちが沢山いることに強い関心をもった。それは、世の中には自分の考えなど全く及ばない何かがあるのか、という驚きと、それは自分の目前に起こるかも知れないという恐怖感だった。
しかし、程なくして読書の興味は、横溝正史の金田一耕助ものに振れ出す。事件に絡む血縁のドロドロした感じが、酒乱で暴れる父親のおかげでグチャグチャな我が家と、違うような and 似たようなという親近感がきっかけだった。
そして、吉川栄治歴史文庫の三国志を経由して、池波正太郎の真田太平記などの歴史ものと対峙する。
一度目の結婚、離婚、シングルでの子育てなどがあって、本読む時間あるなら働けやボケ、みたいな時期を迎えて一時停滞するものの、子育てがひと段落した頃、暮らしに少しの「余白」が現れた。余白を余白のまま放置しているうちに、発酵食品や発酵学に興味を持って関連書籍を読み始めた。再び読書生活のギアが上がった。
その後、コロナ禍をきっかけにWebデザインの勉強を始めてのめりこんだため、その筋の教科書的な本を購入して、三密を回避しながら悪戦苦闘する。没入しているうちにふと、Webデザインより、そこに書かれている「文章」の方が大事ではないのか?デザイン云々より、ますソコやろ、と八百万の皆さま方からの声が降りてきた。
そんな頃SNSで知った、古賀史健さんの著書「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」の存在を知り、ピンときて購入し、何度もホジって読み返した。
さらに、古賀さんが著書の中で触れていた参考書籍的な本を可能な限り読み漁っていくうちに、発酵学以外にも人類学や農業、リベラル保守思想など、自身も予測つかない方向へ興味と思索が進みだして現在に至る。
自分が読んだ本の内容の変遷を辿ってみても、選んだのは自分だったはずだけど、視座を換えれば「本が現れた」「本に見つめられた」からソレを手に取って読んだとも言える。それは私にとって、ほんの些細なものではあるけど、読書の遍歴、つまり「歴史」である。
さあ、ここから今日の暮学の話は本題に入る。すまん。
自分の思索を培ってきたものの一つである「本」について考えるにしても、私は自身の「歴史」から逃れることは出来ないように思える。
しかし、ヒトは歴史を物語として捉える癖を持つ動物らしい。
歴史は歴史でしかないのにも関わらずである。
物語は物語、歴史は歴史と分けて捉えることが苦手な動物と言い換えてもよいのか。
暮らしの目前に現れた「外側の事柄」に気づいたとき、ヒトは、いやここでは私としておこう、私は無意識に自分の歴史、知る限りの周りの歴史、そして言葉を持って対峙する。
ここで「外側の事柄」を物語と捉えた場合、対峙の仕方が物語の「筋」に大小の影響を受けることなる。「外側の事柄」が私に物語として捉えるように強いてきている場合は、間違いなく「筋」に仕掛けが施されているから注意しなければならない。
暮らしの目前に現れる「外側の事柄」は、歴史の一場面にすぎない。
もし、それが物語になるなら、その時は「外側の事柄」と対峙して折り合いがついた後である。様々な場面をある視座から整理整頓した形で、である。
暮学では、この点を常に意識しておかなければならない。しんどいけど。
このしんどさを抱え続ける体力と知力と余白が、暮らしには、ヒトには必要不可欠なのである。
今日はこのへんで。
次は、物語と似たようなテーマだけれど、「レッテル」について考えてみようと思う。