ドラゴン桜に「人生の暮れ活」の核を見出した話
先日、ツイッターを開いてみたら、どなたかが昨年TBSテレビで放映していたドラマ「ドラゴン桜」(第2シリーズ)の映像の一部を切り取って字幕付きで投稿しているのが目に入りました。
私も当時このドラマをリアルタイムで観ていて、とても印象に残った場面だったので、投稿された動画を思わず見入ってしまいました。
東大進学のために出来た「東大専科」に入って勉強を始めたばかりの落ちこぼれの生徒たちと、元々成績が良くて東大目指しているけど性格がメチャ悪い「藤井くん」が、同じ東大入学試験問題を解いて成績を競った結果、なんと「藤井くん」が東大専科の生徒全員に負けてしまったときの場面でした。
ツイッターで投稿されていた動画には、場面の一部だったので、全体はどんなのだったかを思い出したくなって、自分で録画していたものを再生してみました。第3話の一部です。
テストが行われていた教室の外から一部始終を眺めていた他の生徒たちの一部が「藤井くん」に向かって「藤井、東大うけるのやめたら?」とバカにした声をかけたとき、桜木先生がその生徒たちに向かって口に出した言葉から文字に起こしてみます。(カッコなしの部分は全て桜木先生の言葉。※の部分は私が記述しています。)
このドラマの中で主人公の桜木に、「今の世界の状況が未曾有の危機だ」と言わせたのは、放映されたこの時期ならではの言葉だと思います。
しかし、「もしかしたら・・・」のくだりが現実になってしまうなんて、リアルタイムで観ていたときは一片の想像もしませんでした。この動画を投稿した人は(ルール上問題があるかないかは分かりませんけど)、この「もしかしたら・・・」を思い出したことで思わず行動に移してしまったのでしょう。
この印象的なシーン、それぞれに感じ入った方も多いと思うのですが(知らんけど)、このツイッターの投稿映像を観て、私もリアルタイムで観ていた当時の記憶が蘇りました。
どんな記憶だったかと言うと、
「ワシらオッサンはどないしたらエエやろかいな?」
と心の中でテレビ画面にツッコミを入れたことです。
この子ら若いからエエけど、ワシらオッサンは(オバハンも)どんなに勉強しても若い子らの数パーセントしか脳ミソに留まらん。その数パーセントですら翌日の朝には、ほとんどドリームキャッチャーに捕まった悪夢のように消えてしまう生き物になってしもうた。それでも、この身の周りにある世の中の実態を見つめ直し、捉え直して自分なりの答えを出し、それを行動にまでもっていき、先の風景を見るためには、どのように「勉強」すればよいのだろう?
これは、noteを始めるきっかけとして私の着目した「人生の暮れ活」という概念が、いったい何故必要なのかという疑問の核にあるものでした。
このドラマを観てからおおよそ1年の月日が流れ去った世の中は、SDGsという言葉さえ懐かしい響きを持つように混迷の度を深めています。
機械や技術が進歩してモノゴトの活動範囲が地球規模に拡がったことで、世の中が一見豊かになったような気がしたけど、実はそうでもないのかな~という雰囲気が少し出てきたと思えば、時計が100年巻き戻ったような出来事が起こってしまった、というのが今です。つまり、今までの「結果」です。
今、ここで世界情勢についてどうこう言うつもりも知識もありません。
ただ、問題(トラブル)となった「結果」を解決する方法は「結果」に至る過程の中にあると思います。それは決して「結果」が起こす事象を解決する方法とは違うんですよ、ということは「管理人」として申し上げておきたいポイントです。
話を本題に戻して、オッサン(オバハン)は一体どうやって「勉強」すればよいのだろう?という疑問に対する答えは、世の中がこんな風になってしまった時点でハッキリと出ました。かなりハッキリとです。
それは、
「知らんがな。」
です。
オッサン(オバハン)の勉強は、若い子たちと違ってそもそものスタートラインがバラバラです。頭の錆び具合、身体のポンコツ具合が若い子たちと比較にならないくらいにバラバラなんですから。なので、アナタも私みたいに勉強すればモノゴトの実態が分かりますよ、なんて言うのは不可能なんです。だから、私の言う通りにしたら出来るなんて断言する人は詐欺師だと思って構わないでしょう。
「じゃ、どうすればいいの?」
と訊いてくる人が居るかも知れません。
しかしですね、そうやっていちいち他人にどうやったらよいかを訊くってことが、そもそも間違っていると思うんですよ。
何を間違っているかというと、何もしないうちにどうしたらよいかを他人に訊くということが、です。
ひとまず、何でもよいですから自分の手と足と脳ミソを動かして何か行動してみましょう。
オッサン(オバハン)の勉強は、そこからスタートです。スタートラインは全然違いますけど、始め方は同じだと思っています。
自分の飯を作る、掃除をする、洗濯をする、散歩をする、遊びに行く・・・、家族の誰かに任せている事柄があれば自分でやってみてください。普段自分でやっている方は、その営みを「いつもと変えて」やってみてください。そして繰り返してください。そのうち、「あれ?」と思うことが起こるはずです。
食材を買う店を変えてみたら美味しかった、住んでる団地の階段を掃除したら別の部屋に住んでいる人から随分褒められた、洗濯ものが少なかったので久しぶりにカーテンも洗ったら見違えるほど綺麗になった、散歩する道を変えてみたらボケたジジイが徘徊していたのでビビった、いつもネットで本を買うけど本屋に立ち寄ったら色々あってつい長居してしまった・・・何でもいいんです。普段当たり前であるようなことも、自分の行動しだいで少しだけ当たり前じゃないことが分かりだす。そのうち「あれ?あれは何だろう?」って、それまで気にもしなかったことに目が留まりだすはずです。
それが、オッサン(オバハン)の「勉強」の出発点じゃないかと思うんです。
私はアナタの目や耳にはなり得ない。だから「知らんがな」なんです。
教えようがないんです。
かといって、私と皆さんの接点が一切ないわけではありません。
「勉強」を始めたオッサン(オバハン)は、住み暮らす地域を徘徊しています(まだボケてないことを祈っています)。そのうちに何処かで同じ「勉強」をする場面に出くわしてご一緒する機会があるかも知れません。
その時、もしかすると私は、アナタに訊かれてもないことを色々と喋ったり、おせっかいを焼いたりするかも知れません。
あっ、その時、オッサン(オバハン)の「勉強」で必要なことが出てきましたね。
それは「折り合う」ことです。
そうでした。
「人生の暮れ活」の核は「折り合う」ことでした。
じゃ、どうやって「折り合う」のか?ですって?
まだ訊くのですか?
そんなこと「折り合う」前に分かるわけないじゃないですか。
その時その場所で「折り合う」のですから。
私、アナタの代わりに「折り合う」ことなんて不可能ですから。
あんまり推敲しないうちにアップしますけど、今日は書いているうちに錆びた脳ミソがとてもスッキリしました、という自己満足で仕方ない記事でした。
今日はこの辺りで。
「折り合える」人が増えていったら、戦いも減るでしょうしね。