多摩川の鮎
昭和三十二年の夏、私は釣友のUとYそれにSとの4人で多摩川に鮎を取りに行った。
その頃の和泉多摩川は土手際まで西瓜畑が一面に広がっていて西瓜の匂いが土手の上にも満ちていた。雲間からさす月の明かりを頼りに舟を出して網を打とうというのである。
実はSがこの和泉多摩川にあるボート屋の息子の家庭教師をしていた関係から特別に頼んで夜の網打ちを密かにやろうという魂胆であった。
さて網を打つといってもS以外はほんの昨日Uの家の庭で2‐3回ずつ練習した程度でまともに打てるわけではない。しかも陸上と異なりグラグラ揺れる船の上で重たい網を打つのだから危なくて仕方が無い。そのうえ和船ときているから舟が目指すポイントに来て網を打った瞬間に棹を立てて舟を止めなければならないのだ。一寸でも遅れると打った網の上に棹を立ててしまう恐れがあるので4人とも緊張していた。当時網一反の値段は一か月分の給料はしていたので貴重品であるし、Sが父親の目を盗んで持ち出して来たものだから尚更であった。
なかなかうまく打てないが鮎は網の音に驚いて水面を飛び跳ねている。とその時、一匹の鮎が船の中に飛び込んできた。和船には左右に板をわたしてあるが、その上に飛び乗ったその鮎は一・二度跳ねると私の正面で一瞬私のほうを見た。私が手で捕まえようとするとピヨンピヨンと跳ねると反対側の船縁から多摩川にポチャンと帰ってしまった。呆気にとられた私は三人に興奮してその顛末を話すのだが本気にしてくれない。そうこうしているうちに周りの空気の匂いが陸に居た時と同じ匂いになっていることに気がついた。鮎が水面に沢山出てきて飛び回るのでその香りが船上にも漂ってきたのである。鮎の香りは西瓜の香りにそっくりと聞いてはいたが真っ暗な川面が甘い香りに包まれているというのはなんともいえない気持ちであった。
「こんなに鮎がいるなら陸から打っても取れるぜ」と誰かが言い出したのを機に舟を陸につけると四人は川に向かって網を打ち始めた。
Uが最初に打つと網は広がらずに一の字になったままで水面に落ちた。「畜生、巧くいかねえな」と舌打ちをしながら慌てて網を引き上げると驚いたことに鮎が三匹ほど網の端っこに引っ掛かっているのであった。それからはもう取れるは取れるはである。一網打つごとに最低5‐6匹は網に入ってくる。一文字であろうと三角形であろうと、とにかく網が固まっていさえしなければ必ず入ってくるのだ。夢中で網を打っているうちに容れものに持っていった魚籠はアッという間に一杯になってしまった。一方網の方も知らない内に破れ目が大きくなってしまい、とうとう使い物にならなくなってしまった。
もういいやという気持ちになった我々は帰ることにしたが終電も無くなってしまっていて歩いて帰るには遠すぎるのでボート屋の貸し舟(屋形船)にもぐりこんで夜を明かすことにした。翌朝一番電車で私は受験生時代にお世話になったH先生のお宅に駆けつけて鮎を30匹ほど差し出すと、先生は生まれ故郷の小田原の早川の鮎を思い出されたのか鮎をザルにうつすと鼻を近づけて目をつぶっておられたがやがてポツンと言った。
「多摩川の鮎も捨てたものではないねえ。けれども早川の弟分だな。」