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【1000字】熊

「うちに熊がいるから見に来ない?」と女は言う。飼っているわけでなく、野生の熊が真夜中にやってくるという。彼女の両親は先週、その熊に食われたらしい。
「父親も母親も大嫌いだったから、あの子には感謝しているくらいなの。姉貴もいたらよかったのに」
「お姉さんは無事だったんだね」
「去年、家を出て行ったの。運の良いやつだよ。あんたも、殺したいやつがいたら連れてくればいいよ。熊が食べてくれるから」
 特に予定もなかったので、僕は誘いに乗った。「今夜もきっと来るよ」と女は嬉しそうに笑った。

 女の家に着き、簡単な性交を終えたあと、僕は地下室の階段に身を潜めた。間男の気分にさせられるのに充分なシチュエーションだった。女は半裸姿のまま、冷蔵庫から大きな肉の塊を引っ張り出す。それが彼女の両親の一部なのかどうか、訊く気は起きなかった。
 熊は午前二時にやってきた。
 勝手口から物音がしたかと思うと、茶色い体毛の大きな獣がのっそりとリビングに現れたのだ。女はニコニコと肉塊を差し出す。熊は荒い息遣いで嗅ぎ、五分もかけずに平らげてしまった。

 熊が出て行ったあと、女が僕のそばまでやってきた。「言った通りでしょ?」と得意気に囁く。僕は上手く笑い返せなかった。ひょっとして彼女は僕を次の餌にするつもりではないか、という恐ろしい予感があった。一刻も早くこの家を出なければ。
 そのとき、熊がポリタンクを片手に戻ってきた。
 呆然とする僕たちに構わず、熊は家中にポリタンクの中身を振りまく。ガソリンのようだ。除草剤を撒く夏場の農夫のようにのんびりとした動作だった。
 作業がひと段落すると、熊が毛皮のフードを脱ぎ捨てた。額に汗を浮かべた髭面の男が、つまらなさそうに煙草を銜えて火をつける。それから「あ、そうか」と思い出したように女を見た。
 男が女へ近づいたので、僕はその横腹を思いきり蹴った。男が呻いて倒れ、煙草の火がガソリンに触れる。男が炎に包まれるのと同時に、僕は女の腕を引いて家を飛び出した。

 熊の毛の焦げる臭いがまだ鼻に残っている。
 後ろを振り返ると、燃え盛る家が月のない夜空に煙を立てていた。僕は息を切らし、最寄りの警察署を必死に探して回る。「姉貴に電話してよ」と女がまだ泣き喚いている。



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