【1000字】素敵なまばたき
車がガードレールを突き破り、私は肉体の鈍重さを思い知る。我々に残された時間は、谷底に激突するまでの刹那のみ。できることは限られているのに、思考だけがこうして加速しているのだ。
妻はハンドルを握って前方を凝視している。私は助手席で体を捻り、彼女のほうを向いていた。直前までどんな会話をしていたか憶えていない。喧嘩の途中だった気がする。ひどい口論をしていた。それで、妻はハンドルを切るのが遅れたのだ。
可哀想に……。
愛してもいない夫と喧嘩して死んでいくなんて、女として不憫すぎる。思えば妻は最初から不幸だった。私との結婚も恐らく本意ではない。親に決められた婚姻だ。妻の笑顔を、私は生涯で数えるほどしか見ていない。
謝りたい衝動が起こったが、谷底はすぐそこまで迫っている。どんな言葉も間に合いそうになかった。
妻が驚くほどゆっくりとこちらを向く。きっと睨んでいるだろう、と私は覚悟した。
しかし、妻は睨んでなどいなかった。
そこに浮かんでいたのは子供のような怯えと、私と同じ悔恨の眼差し。私は、彼女が私を愛していることを直感した。そしてまた、私も彼女を愛していることを悟った。
これで終わりなのか?
きみに話したいことが山ほどあるのに……。
彼女の瞳もなにかを訴えるように潤んでいる。言葉はもう間に合わない。音よりも早く死がやってくるだろう。
岩肌がフロントの鼻先へ迫ったとき、彼女がゆっくりと瞬きした。
それが、私たちに残された最後のコミュニケーションだった。
私も亀のような必死さで瞬きを返す。
愛している。
きみを誰よりも愛している。
彼女の口許に、微笑の気配が。
そして、死がやってきた。
衝撃。
轟音。
暗転。
静寂。
「お疲れ様です」
はっと目を開ける。
眩しい。
白い部屋。
天国か?
男の顔が現れ、私の目を覗き込む。
「シミュレーションは終了です。機械を外しますね」
頭からなにかが外された。
放心しながら起き上がると、妻も同じような様子で隣のソファに座っていた。
セラピストが紅茶を差し出し、にこやかに我々を見つめた。
「お二人には臨死体験をしていただきました。最期の瞬間、互いに相手をどう思ったかを話してください」
私たちは顔を見合わせた。
「あなたから先に言って」
妻がぶっきらぼうに促す。
私は考え、散々迷ってから、真っ先に浮かんだ言葉を口にした。
「素敵な瞬きでした」
妻はぽかんとしてから、ぷっ、と子供のように笑いだした。