【断食】1週間0kcal生活まとめ【修行1】
こんにちは。てらだです。
第一回修行【断食修行生活】の振り返りをしていきます。
YouTubeチャンネル『1000日後に悟りを開く教祖(仮)』というチャンネル名で修行生活の様子を投稿しています。
断食修行生活の気付き、感覚の変化
感じたこと、気付いたことをありのまま書き綴ります。
スッキリ爽快よりも圧倒的に苦しみが大きかった
まず、断食は辛かった。苦しかったです。
身体から毒素が抜けたり、精神的にも整う部分は大いにありましたが、一言でいうと『苦しみとともに居た一週間』でした。
苦しみは3回訪れました。
1回目は1〜2日目の空腹感
2回目は力が入らない脱力感
3回目は水も飲みたくない衰弱感
どれも辛かったですが、苦しみの大きさは徐々に大きくなっていく感覚がありました。
苦しみを受容した先に新しい感覚世界が訪れる
3回の苦しみがあったのですが、それぞれ苦しみとともに過ごし、一定の時間が過ぎると、まるでそれまで何もなかったか(苦しみがなかったか)のように身体が軽くなりました。
この軽くなった感覚の時、それまでの感覚と少し違う感覚になっているのです。
スッキリというか無というか。自分の中から何かが出ていっていって世界が広くなる感覚です。固定概念がなくなるような感覚に似ているのかもしれません。こだわっていたことや囚われていたことから少し解放される感覚でした。
そして、苦しみの大きさと比例して、よりたくさん無くなっていく感覚がありました。
苦しみは体験した人にしか理解できない
3回の苦しみの中で圧倒的に3回目が辛かったのですが、その時に気付いたことがあります。
それは、高齢者や弱っている方ってこんな感覚なのかなということ。
歩くだけで息が上がり、階段を登ると心臓がバクバクして苦しく、足元のバランス感覚が低下して手すりに頼ったり、寝ようとしても上手く寝付けない。
自分が当たり前のように街で見ていたはずの人の中にも、きっと同じような感覚を持っている人がたくさんいるんだろうと思った。
自分が当たり前のように見ている世界は限定されていて、自分の知っている範囲内で見たいように見ているに過ぎないんだという気付きがありました。
苦しみを受容した先には優しさがある
この一週間苦しみとともに居たことで、少し、ほんの少し優しくなれたような気がする。一時的かもしれないけど、そんな感覚があります。
イライラしても、嫉妬しても、そこには新たな苦しみしか生まれない。
苦しみは新しい世界を見せてくれるけど、苦しみとともに居ることを選択するかどうかは自分自身で決めるのが自然なのかもしれないと思った。
ここからは、断食修行生活によって無になっていく感覚から得られた気付きを書き綴ります。
「無」い状態から見る「有」る状態は豊かに映る
断食生活によって、少しずつ毒素も欲望も生気も無くなっていく感覚がありました。
自分の中から色んなものが無くなっていくことで、有るものがより鮮やかに見えるようになりました。
普段の生活よりも無に近い視点からみるこの世界は、本当に色んなものが有るんだなと気付きました。
今まで自分のアンテナを張っていなかった情報が目に入るようになったり、生活の一つ一つにある豊かさにも目がいくようになりました。
断食修行生活を通して生きる意味の幅が広がった
普段の生活よりも無に近い視点に一定期間身を置けたことで、この世界に対する視野が広くなった感覚があります。
それと同時に、自分が生きる意味って思っていたよりももっとたくさんあるのかもしれないという気付きがありました。
食べること、人と話すこと、仕事をすること。
どれも好きなことであり、生きる意味に繋がっていたことは確かだったのですが、それがもっと小さい単位で見えるようになった感覚があります。
『当たり前に感謝する』という言葉がありますが、『当たり前の中にある小さな一つ一つの豊かさに対して、丁寧に受け取る』ということなのかな、というのが現時点での自分の状態です。
断食修行生活を通しての気付きを最後まで読んで頂きありがとうございます。
では、良い人生を。
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