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2015年、私は…
50代になって順当の見送りは一通り経験した。高齢者の逝去は、こちらも心の準備があり、お別れは寂しくとも心静かに温かく送ることができた。逆に、順当でない場合は心が激しく乱れた。
私にとって、一年ほど前の親友の死はとても大きな出来事だった。唯一無二の親友が死んでしまうだなんて希有な経験だと思ったけれど、ふと見回せば身近な人のなかにも私と同じように親友を癌で失った人も居たし、お姉さんや妹さんを失った人も居た。そのことを誰彼かまわず話題にするわけではないから知らなかっただけ。折を見て「実はね…」って、ごく親しい人だけに知らせる、そういう経験なのだ。
私が愛読しているブロガーさんのお姉さんも癌で亡くなり、妹であるブロガーさんは時折、在りし日の故人のことや自分の胸のうちを記事にする。感情移入してもらい泣きしながら読んでいる。そして、そんな日のコメント欄は「私も…」「私も…」と近しい大切な人を失った読者が寄せる悲しみの言葉が連なる。ひとつ、ひとつ、読ませていただいて、またもやもらい泣きをする。
そして思うことは、みんな、自らの悲しみを、話す機会や表現してよい場所を求めているのだと。もちろん私もそうだ。話したい。聞いて欲しい。故人が自分にとっていかに大切であったか。恋しいか。今も会いたくてたまらないことなど。
それを言ってどうにもならないことでも、心の中に降り積もった悲しみは、少しずつでも言葉にして外に出したほうが良いのだと思う。リアルな友人知人に聞いてもらうには、重いだろうな鬱陶しいだろうなとためらう話しも、noteになら書ける。
私のたわごとなど誰の目にも留まらないかもしれない。でも、2025年、私は、今までしてこなかった何かをちょっと始めた。それがnoteだ。