![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/113563635/rectangle_large_type_2_a250bf608f69ded254491bace06b90f5.jpeg?width=1200)
本気のマグカップ
モーニングルーティン。直訳すると朝の慣例。朝起きて、お水を飲む。冬場は寒いので白湯を飲む。それからコーヒーを淹れる。いい感じです。出来上がった淹れたてのコーヒーを、カップに入れる…その前に。棚に並ぶカップと真剣に会話する。怪しいでしょうか。怪しい感じです。
これは、私が幼児の子育てから卒業した頃に始まった、毎朝のルーティンです。
![](https://assets.st-note.com/img/1692226211680-dHlHYELfoL.jpg)
「毎朝好きなカップを選びます」と言うと優雅に聞こえますが、ことはもっと重大、且つ本気です。
器好きの夫が集めてきたもの、私がごく稀に買ってくるもの、本来は湯呑みのもの…うちの棚には20個くらいは「カップ」と呼べるものが並んでいます。
その中に自分のお気に入りは4つか5つくらい。その4つ5つの中から、今日の気分はどれなのか、側から見ると笑われそうなくらい真剣に選びます。自分の気分を確かめる。
ずっと続けているので、今は0.2秒くらいで決められます。忙しい時やしんどい時は大体コレ、というカップもあり、自分の体調や心の余裕の具合もカップで計れます。
![](https://assets.st-note.com/img/1692226236372-irq4CV0YnC.jpg)
なぜこんなことを始めたかというと、乳幼児の子育てが落ち着いた頃、私は私の本当の「欲」がわからなくなっていることに気がついたからです。
食べ物は「子どもが食べやすいもの」、お出かけは「子どもを受け入れてくれるところ」、着るものは「授乳や公園遊びの邪魔にならないもの」、気がつけば何もかも外側の指針に従っていました。
子育ては幸福なことが山のようにあります。しかし、同じくらいに山のような「諦め」が付いてきます。はじめは抵抗しても、だんだんとガッカリしたり腹が立ったりするのに疲れてきて、「いいよいいよ、私のことは」という風に諦め上手になっていきます。
そうやって何年も過ごしているうちに、自分は何を食べたいのか、どこに行きたいのか、なにが欲しいのか、分からなくなってしまった。そのことに気がついた時は結構衝撃を受けました。ですが子育てに関係なく、そういうことは往々にしてあるような気もします。
![](https://assets.st-note.com/img/1692226254685-tJvDwB7wlD.jpg)
それで、誰に言われるでもなく、なんとなーく始めたのが「真剣カップ選び」だったのです。本気の真剣です。妥協してはいけない。
同じ形のカップを何色か揃えても良いし、そうでなくてもお気に入りを最低3つは揃えると良いと思います。そして今日はどれだ?と、言葉ではなく感覚で問いかけます。理由は入りません。むしろ無い方がいい。
その言語化できない本当の欲が、直感や第六感と呼ばれるものに近いのではないか、と勝手に踏んでいます。
これを続けていると、だんだん他のことにも波及していきます。
風呂上がりに選ぶパンツ、朝着替える洋服、ふと口にする飲み物、
読みたい本、聴きたいラジオ、選びたい道。
もしよければお試しください。優雅にやらないで、本気でどうぞ。