虎とアーレント
NHK朝の連読テレビ小説「虎に翼」が最終週を迎える中、笑恵館の映画鑑賞会で「ハンナ・アーレント」を鑑賞した。
ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906年10月14日~1975年12月4日)は、ドイツ出身のアメリカ合衆国の政治哲学者・思想家で、ドイツ系ユダヤ人であり、ナチズムが台頭したドイツからアメリカ合衆国に亡命し、教鞭をとった。
一方、虎に翼の主人公・佐田寅子のモデルとなった三淵 嘉子(みぶち よしこ、1914年11月13日~1984年5月28日)は、日本初の女性弁護士の1人であり、初の女性判事および家庭裁判所長。
二人の間には8年の隔たりがあるものの、ほぼ同時代の社会を生きた女性として比較してしまう暴挙を、今日はお許し願いたい。
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ドイツの親衛隊隊員だったオットー・アドルフ・アイヒマンは、ゲシュタポのユダヤ人移送局長官としてアウシュヴィッツ強制収容所へのユダヤ人大量移送に関わり、「ユダヤ人問題の最終的解決 (ホロコースト)」 における指揮的役割を担った。
第二次世界大戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にモサドによって拘束連行され、1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて、イスラエルで裁判にかけられた。
この裁判の傍聴を願い出たアーレントは、同年12月に有罪、死刑判決が下された後1963年にニューヨーカー誌に『エルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告』を発表し、大論争を巻き起こした。
アイヒマンを悪の権化とみなして断罪したい多くの人びとの反発によって、アーレントの家は文字通り批判の手紙であふれかえり、ユダヤ人の友人をすべて失った。
「ユダヤ人への愛がないのか。」と問い詰められた時、「自分が愛するのは友人だけであって、何らかの集団を愛したことはない。」とアーレントは答えた。
ユダヤ人を憎んでいないアイヒマンと、ユダヤ人を愛していないアーレントが、どちらもユダヤ人から憎まれるのはなぜなのか。
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一方「虎に翼」の最終週は、口にするのもおぞましい理不尽から逃れるため「尊属殺(父親殺し)」を犯した美位子と、亡き母の遺した「特別であらなければ」という言葉に縛られた美雪という二人の女性の物語だった。
尊属殺人罪とは、自己または配偶者の直系尊属を殺害する犯罪のことで、直系尊属とは、血のつながりが直通する親族のうち、自分より前の世代の人を指す。
通常の殺人より尊属の殺人に重い罰を課す「重罰規定」は、法の下の平等を定める憲法14条に違反するため無効(違憲)という最高裁の判断が描かれた。
そして、友達に売春や窃盗を犯すように仕向けた自分を「特別な存在」として正当化する美雪に対し、寅子はそれを否定せず、誰もが特別という平等を説いて見せた。
つまり平等とは、「誰もが同じ」なのではなく、「誰もが等しく特別」なことを指すということだ。
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さて、この二つのドラマに対し、僕が何を思うかをお話したい。
アイヒマンが大虐殺を推進したのは、ユダヤ人に対する憎悪でなく、上司からの命令だったからに過ぎないし、その最上位に居たヒトラーの所業すら、当時のドイツにおける合法行為だったというのが彼の言い分だ。
これに対し、「ユダヤ人に対する憎悪無くしてそのような非道を成せるはずがない」と主張する人々が、「ユダヤ人という集団を愛したことがない」というアーレントまでも憎むのは、愛憎で無く無関心に対する反発というべきだろう。
これに対し、「自分だけが特別」と考える人が「他の誰もが特別」ということに思い至らないことも、似たような状況に思える。
この「無関心」をあえて「無思考」と考えることこそがアーレントの哲学だ。。
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そして、このことをさらに丁寧に説明してくれる「虎に翼」に僕は感動した。
これまで父の手で自分の人生を壊され、逃げようとするたびに道を塞がれ、激しい暴力により思考することさえ奪われた美位子に対し、「もう誰にも奪われるな、お前が全部決めるんだ。」とよねは言った。
幼い頃にいなくなった母の考えを知るために、母の人生をなぞるように罪を犯した美雪に対し、「お母さんのこと嫌いでも好きでもいい。親に囚われ、縛られ続ける必要はないの。どんなあなたでいたいか、考えて。」と寅子は言った。
他人に奪われ囚われ縛られるのでなく、自分で考え決めるべき。
結局、虎もアーレントも「自分の羽で飛べ」と教えてくれたんだと思う。