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目的と方法
先日FP(フリーパートナー)のMYさんと話す中で、「方法論は饒舌だけど、目的論は語らないね」という話になった。
同じころ、朝ドラ「おむすび」の第3週副題が「夢って何なん?」であることを思い出し、たとえ話に紹介したら、残念ながら彼女は朝ドラを見ていない。
そこでこのブログの中から、関連記事を紹介しようと思ったら「目的と方法」という投稿は見当たらない。
「目的と方法」の関係は、まつむら塾実現学の核心部分のはずなのに、それぞれ別のカテゴリーに分類したため、その議論が埋もれていることに気が付いた。
そこで今日は、改めて「目的と方法」について論じてみたい。
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まず初めに、僕の持論から始めよう。
そもそも「何か(what)」という概念は、主体者の「目的(why)」と「方法(how)」の組み合わせで出来ている。
目的が同じでも方法が異なったり、方法が同じでも目的が異なれば、それは違う「何か」となる。
例えば、「消えるボールペン」と「消えないボールペン」の違いは、その方法(使い方)よりも目的の違いにより決定される。
つまり、「消せるように書くため」か、「消えないように書くため」かは、方法(書き方)に違いはなく、目的が逆となる。
一方、「戦争」と「交渉」の違いはその目的より方法(やり方)の違いで区別される。
つまり、「殺し合い」と「話し合い」は方法の違いであり、どちらも「解決という目的」は共通だ。
その結果、「何かを実現する」とは、その「目的と方法」を具体化すること・・・というのが、実現学の核心だ。
僕は常に、この発想に基づいて思考するように心掛けている。
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さて、「何か(what)」、「目的(why)」、「方法(how)」の3つについて、もう少し説明を加えたい。
まず、初めに述べたとおり、3つの関係は「何か」=「目的」+「方法」。
「何か(what)」は、「考えること」で、具体的には言葉や名前となる。
「目的(why)」は、「思うこと」で、具体的には理由(過去・出発点)や目的(未来・到着店)を指す。
「方法(how)」は、「やること」で、具体的には原因と結果を伴う現実世界の変化を指す。
つまり、「思い」と「行動」の組み合わせを、考えて名付けたものが「言葉」になり、僕たちはそれを使って何かを共有(コミュニケーション)する訳だ。
詳しい説明は、まつむら塾に委ねて、今日は話を進めたい。
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ここで僕がこだわりたいのは、「思い」無しに「何か」を「やり遂げ」ても、それを「実現」とは言わず「まぐれ(偶然)」と言うことだ。
決して「まぐれ」を否定したいのではなく、「実現」としっかり区別すべきだと僕は思う。
あなたがやりたいのは「実現」と「まぐれ」のどちらなのか、を僕は問いたい。
もしも「まぐれ」で良いのなら、そこは確率論の世界となり、数打てば当たるとか、敵が少ない方が有利とか、参考書やセミナーはいくらでもある。
だがもしも、「実現」に挑みたいのなら、行動する前に「目的(why)」を持つ必要が有る。
「まぐれ」にも、目指す目的があるとあなたは思うかもしれないが、それは「目的や思い」でなく「願い」と言う。
「願い」は「自分で実現する」のでなく、「誰かが叶えてくれる」もの。
たまたまそれが自分なら、この「たまたま」がまぐれの証拠だ。
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さて、ここからが今日の本題だ。
「まぐれ」は否定しないけど、なぜ「実現」が不可欠なのかを説明したい。
僕が受ける相談の大多数が、「どうすれば良いか?」という質問だ。
はじめに紹介したFPとのやり取りも、まさに「どうすれば良いか?」に関する議論のひとコマだ。
「どうすれば」とは「方法」に関する疑問なので、その議論は当然「方法論」となると思われがちだが、僕はいつも「その前提となる目的論が抜けていませんか?」と問い直す。
つまり、僕にはその問いが「どうするのが正しいですか?」と聞こえてくるので、「あなたにとって正しいとは何ですか?」と問い直したくなるわけだ。
「正しい」とは何か?、それは「目的に到達できるかどうか」に他ならない。
なので、「目的が何か」が明確でなければ、その方法が正しいかどうか分かるはずがない。
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例えば、ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナはどちらが正しいのか。
双方が違う目的のために戦う以上、それぞれに賛同者がおり、世界はいまだに解決できないでいる。
僕は戦争という方法を肯定しているのでなく、それぞれの目的を調整しなければ和解はあり得ないことを伝えたい。
つまり、目的こそが正誤、善悪、良否を決める前提であり、その調整に「出来そうもない」などという方法論が優先していることこそが問題だ。
たとえ一見不可能でも、双方が合意できる目的(和解案)をまず作り、その方法を広く世界に募るべきだと僕は思う。
これは個人レベルでも全く同じことで、すべての価値基準を決めるのは自分自身に他ならないと、僕は断言したい。
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もちろん、多くの人が賛同する「常識」が存在するのは確かだが、その人々が自分自身の判断で選んでいるかどうかはかなり怪しい。
「仕方ない」とか「無理もない」とか方法論に基づいて、選択でなく同調や諦めが大部分かも知れない。
現に「戦争したい、他人を殺したい」などと言う人を見たことも無いのに、世界中でテロや戦争は無くならない。
だから僕は、常識はもちろんのこと、正誤も善悪も信じない。
すべてを一旦疑って「なぜ?」と問うてから、自分なりの答えを出すようにしている。
それが僕の「考える」という日課であり、趣味であり、仕事だ。
こんな議論を「青臭い」とよく言われるが、否定と肯定が入り混じっているので「そうですね」と受け流す。
でも僕はこの言葉は嫌いじゃない。
「青臭い話」したい人、いつでも大歓迎なのでよろしく。