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新しい戦前

8月は終戦の月、原爆の日や終戦記念日などが続く中、「新しい戦前」という言葉があちこちから聞こえてくる。
元はと言えば、一昨年の12月28日にタレントのタモリが「徹子の部屋」の番組内で、「来年はどんな年になりますかね?」と尋ねられたのに対し、「誰も予測できないですよね。これはね。でもなんて言うかな。新しい戦前になるんじゃないですかね」と答えたことに端を発するようだ。
改憲や軍事費拡大など、戦争に向かうかのような世相を「戦前」と言うタモリのセンスに感動するが、ちょっと気になることがある。
それは、タモリ本人はそんなことは微塵も語らず、この一言を吐いただけ。
それなのに、この「新しい戦前」という言葉が、僕の、いや、多くの人の心を動かすのはなぜなのか。
僕はこの疑問をタモリにぶつけるのでなく、僕自身にぶつけたくなった。

この言葉のインパクトを生む要因は、「新しい戦後」との対比だろう。
1941年以前を戦前、1941~1945年を戦中、1945年以後を戦後というならば、現在は明らかに戦後なので、黒柳徹子の問う「来年」は「新しい戦後」であるべきだろう。
それをあえて「新しい戦前」と言うことで、タモリは次に来る「戦中」を強烈に暗示している。
現に政治学者の白井聡は、これに触発されて「新しい戦中」とまで述べているようだ。
そもそも「戦後」という言葉から僕が連想するのは、戦争からの反省や敗戦からの出直しだ。
広島市の平和公園にある原爆慰霊碑に刻まれた「安らかに眠ってくださいこの過ちは繰り返しませぬから」という言葉こそが、日本の戦後を象徴する。
もしもこれが「従来の戦後」だとすれば、「新しい戦後」とは従来と違う「反省の無い戦後」なのだろうか。
それをあえて「戦前」と呼ぶことで、反省と戦争放棄の形骸化を指摘していると捉えるのだろう。

だが、「戦前」とは一般的に真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争の開戦前のことで、明らかに過去を指す言葉だ。
つまり、「新しい戦前」は、「新しい過去」という時間の概念を逆転する言い回しで、聞く者の頭をかき回す。
そう言えば、かつて「懐かしい未来―ラダックから学ぶ」という本を読んで、脳内の時間をかき回されたことを思い出す。
ヒマラヤの辺境ラダックでつつましくも豊かな自給自足で暮らして来た人々に突然入り込んだグローバリゼーションの弊害に対し、ラダックに息づく深い伝統的な智恵が、その新たな道を進む鍵を見出す。
素晴らしい過去には、その過去を目指した更なる「それ以前」があったはずで、そこから見た「素晴らしい未来」のことを「懐かしい未来」と呼んだのだ。

さて、こうした発想に基づいて「新しい戦前」を考えてみたい。
「新しい戦前」は「従来と違う戦前」を意味するのかもしれない。
もちろん「従来の戦前」とは「戦争を回避できなかった戦前」のことであり、「新しい戦前」は「戦争を回避できる戦前」になるように願いたい。
しかし、戦争しないのならそれは戦前とは言えず、かつての戦争とは異なる「新しい戦争」をイメージせざるを得ないだろう。
僕が気になるのはこのことだ。
2年経っても、この言葉が堂々と独り歩きしているなんて、良いはずがない。
「新しい戦前」が、戦争を回避できない宿命を示唆する言葉なら、それは議論の始まりであって、終わりではないはずだ。
もしも僕なら、タモリが言った時に「それはどういう意味ですか?」と絶対に訊き返していただろう。
黒柳徹子ともあろう人が、それをせず、「なるほど、世間は戦争に向かっているのかも」と、感心していちゃいけないと思う。

だがここで、とんでもないことに気が付いた。
ラダックの人々が夢見た「自給自足の暮らし」のような、平和の夢が叶った状態を、僕たちは見たことがあるのだろうか。
もしもそのような過去があったとすれば、それを目指した頃に立ち返り、「懐かしい未来」として語ればいいのではないか。
まさに今、日本で実現している平和を「懐かしい(過去の)平和」にしてはならない。
今の平和を望んだ戦後こそが「新しい戦前」だったのかもしれない。
僕は今、「いつまでも戦争をしない戦前」を提唱したくなってきた。
歴史上見たことのない「戦争のない世界」を唱えるより、日本が戦後実践した「いつまでも戦前」こそを、「新しい戦前」として提唱したい。
「戦争なんかさせない」という言葉だけは、ドナルドトランプを応援したい。
極論だが、大事。

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