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心残り無く

僕は「空き家問題」という言葉に、大いに疑問を感じている。
なぜなら、大多数の人々と僕とでは、この言葉の指す意味がまるで異なるから。
多くの人々は、「空き家」の存在の弊害や、それがもたらす迷惑や危険を問題視しているが、僕は「空き家」の存在そのものやその増加が持つ意味に、深刻な問題を感じている。
そんなギャップをもたらす原因は、明らかに「空き家」の定義の曖昧性だ。
総理府統計局が5年ごとに行っている「住宅・土地統計調査」における空き家の定義は、「居住できるのにしていない住居」となっていて、そこに廃墟や廃屋は含まれていない。
一方で、「空家等対策の推進に関する特別措置法」が取り扱いを定める「特定空家」は、まさに廃墟や廃屋及びその予備軍を対象としている。
「使えるのに使わない・問題」が、「使わないから迷惑だ・問題」に発展し、「使うにはどうしたら良いか・議論」に帰結した。
こうして「迷惑」にフォーカスして全体像を見失った現状を、少し解きほぐしてみたいと思う。

まず、空き家がもたらす弊害を論ずる前に、空き家そのものの是非(良し悪し)を論じてみよう。
空き家は無い方が良いのでなく、無くてはならない社会の必須だ。
もしも空き家が無かったら、僕たちは住まいや店、事務所など購入も賃貸もできなくなる。
住宅市場における空き家は「在庫」であり、現代社会における職や住の流動性を担保する必須アイテムだ。
その意味における「良し悪し」は不可避であり、それらの競争や淘汰もまたやむを得ない。
統制よりも自由を選ぶなら、そこでの勝利だけでなく敗北も受け入れなければならない。
ここで忘れてならないのは、勝敗は同数でなく大多数が敗者となることだ。
いかなる競技や競争でも勝者(優勝者)はただ一人で、残りはすべて敗者となる。
たとえ勝者になる機会が均等でも、結果は大多数が敗者という平等が保証されている。

現に、日本の空き家率が先進国中ダントツで高いのは、その無統制(自由)に起因する。
例えば、ドイツでは全国の建築物の築年月と内容がすべて管理され、地域ごとの新築許可件数の目安として、建設業の保護育成に努めている。
これに対し、日本における建築行為は許可制でなく、建築基準法に適法かどうかのチェック(確認)のみの無制限状態だ。
日本にだって確認申請のデータがあるので、建築の実数把握はできるはずだが、その気がないのでやっていない、つまり「放置の自由」を選択している。
5年ごとの統計調査も、300万世帯の調査を20倍にしてるだけ。
ビッグデータ、AIの時代を迎えても、データを廃棄・隠ぺいする国や行政に、未来があるとは思えない。

一方、もっと恐ろしい未来を見せつけてくれるのが中国だ。
2021年に約28兆円の債務超過が露見した「恒大集団」に端を発する不動産バブルの崩壊は、今では「約30億人分の空き家がある」と政府高官がコメントする始末。
これは、「900万戸」と言われる日本の空き家が「1億2千万戸(1世帯2人として)」と言っているに等しい。
チンタラ国家の日本に比べ、イケイケ国家の中国では、無制限な供給過剰の末路があっという間に実現する。
現に、我が国の空き家の過半は賃貸住宅の空き住戸であり、分譲マンションの価格高騰も頻繁に報じられているのだが、供給過剰が問題視されないのは、「中国よりましだから」という外的要因(比較論)が大きい。
結局のところ、「空き家対策=不良在庫の撲滅」は、不動産マーケットの健全化という経済論理の域を越えない議論に思える。

話を本題に戻そう。
空き家そのものの是非を論ずる中で、経済的必要性に気付いたが、今日は別のこと、つまり供給過剰とは別の「空き家が増える原因」を論じてみたい。
それはもちろん「人口減少に伴う空き家問題」のことだ。
日本の人口は、2008年(平成20年)に1億2,808万人をピークに、その後減少傾向に転じている。
皆さんは、その原因を「少子化」と決めつけているが、この人口には新規に国籍を取得した外国人も含まれるため、実態はもう少し複雑だ。
さらに言えば、戦時や災害を除く平和な状態での人口減少は、これまで経験のない初めてのことなので、その要因を解き明かすのはもちろんのこと、この先どうなるかを予測するのは至難の業となるはずだ。
だが、「空き家の増加」は人口減少がもたらす結果の一つであることは間違いないので、僕はこの現象に魅せられている。

人口減少が、人類あるいは日本人滅亡へのプロセスなのか、あるいは産業革命以降急激に人口が増加した人類あるいは日本人が適正規模に戻るプロセスなのか。
つまり「滅びと存続」のどちらに向かっているのかもわからない。
ただ、いずれにせよ「人口減少」は避けられないプロセスとして受け入れるべきことならば、これに抗う「少子化対策」は、一体何を目指すのか。
もしも、変化を受け入れられずに現状を維持する「無思考」によるものなら、変化に付け込んで暴走した「無思考」と共通を感じる。
受け入れたり抗ったりする対象の「運命」とは、「無思考」という意味で僕は認めたくない。
「滅び」なのか「存続」なのか、僕は受け入れるのでなく自分の意思で求めたい。

もちろん僕の答えは「滅びない存続」であり、「滅びないこと」こそが僕の目指す「存続」だ。
持続とは長寿のことでなく、滅びは死を意味しない。
持続と滅びは組織のことだが、長寿や死は個人の話だ。
これまで人類は「滅び」を回避してきたが、「死」を回避した人は一人もいない。
それは、「長寿」よりも「存続」を優先し。承継に努めてきたからだと思う。
いま世界はSDGsを始めとする「サスティナビリティ(持続可能性)」を追求しているはずなのに、滅びを問題視せず「不労や長寿」ばかり求めることこそが問題だ、と僕は思う。
存続=承継とは、承継する「範囲(地域)」と「方法(仕事)」を定め、「継承者たち(仲間)」に伝える(共有する)ことだ。
「心残り」とは、「自分が死んだ後に何を残したいのか」を決めずに残すことだと僕は思う。
いつ死んでも悔いが残らないように、僕はいつも考えたい。

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