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【エッセイ】ボケとツッコミの師匠バッテンさん

私は1972年4月に朝日放送に入社し、3週間余りの社内研修を経て、テレビ制作部に配属されました。

テレビ制作部内でもまた数週の研修を経て、お笑い専門のディレクター長崎直定氏の下でADとしてディレクター修業を受けることになりました。長崎さんは主に、なんば花月、中座などに出向いてテレビ収録を行っていました。長崎さんは、長崎という姓にちなんで、長崎の方言「バッテン」を生かして、周りからは「バッテンさん」という愛称で呼ばれていた、30代半ばの人でした。

あるときなんば花月の幹事室から、横山やすし・西川きよしの漫才の舞台を私と一緒に見ながら、「漫才には、ボケとツッコミがあるんや」と教えてくれました。1972年の5月、もう半世紀以上前のことです。

「ボケ」と「ツッコミ」そんな言葉のセットがあることを初めて知りました。22年間生きてきて、一度も聞いたことのない言葉のセットでした。

長崎さんによれば、ひとりがボケて、もうひとりがツッコむ。これは役割であり、ツッコむことによって、初めて笑いが生まれるのだというのです。私はまったくの素人であったため、そんな笑いのメカニズムはなんにも知らず、驚いて目を開かせられる思いがしました。

笑いとはそういう風に作るのか……!
 
「ボケ」「ツッコミ」は現代の日本では、数十年前からもう誰でも知っていて、一般人でも「ボケ」に対しては「ツッコミ」を入れることは、人のコミュニケーションの基本のひとつになっていると思いますが、半世紀前は、そんなコミュニケーションシステムは、誰も知るところではなかったのです。
 
長崎さんから「ボケ」「ツッコミ」のことを教えられたそのころは、横山やすし・西川きよしの漫才コンビはやすしのツッコミ、きよしのボケでスターダムに登ったよりもあとのことでした。

しかしその後、やすしさんがタクシー運転手に暴行を働いたことで社会問題となり、テレビ出演は禁止ということになり、なんば花月などの舞台だけでこのコンビは細々と漫才をやっていました。

長崎さんは、またこうも教えてくれました。
「横山やすしはツッコミ、西川きよしはボケやったのに、やすしの犯罪をネタにして、きよしはやすしツッコんで笑いを取るようになった」のだと。
やすしさんのツッコミにきよしさんが窮すると、きよしさんは、こう言って反撃するようになりました。

「おまえ、また人をどつく気か!」

「また警察の世話になりたいんか!」

などと。

やすしは絶句困惑、うろたえる。これでお客はどっと笑う。ここではやすしがボケになるわけです。

「やすしの犯罪のおかげで、このコンビは、自在にボケとツッコミを入れ替わり合う、強みを持ったコンビになったんや」

そのあと、やす・きよのコンビは、朝日放送のテレビ番組「プロポーズ大作戦」などの立役者になるなど、さらに大きい存在に飛躍していったのです。
 
長崎さんはボケとツッコミを説明したあと、私にこう問いかけました。
「ボケとツッコミ、どっちが得やと思う?」
私はすぐに答えました。
「ボケです」

長崎さんはなんにも言わず、いつものいたずらそうな顔で、ニタッと微笑みました。

今思えば、長崎さんは機嫌のいいツッコミキャラクターの人でしたが、私は逆に、生来のボケキャラクターでした。私はそのボケっぷりで、過去にずいぶん知友を笑わせてきた経験を持っていました。

「ボケ」「ツッコミ」を学んだしばらく前、今も脳裏にくっきりと浮かぶ、長崎さんとのやり取りがあります。

月曜日の夕方、夜まで続く仕事の合間に、長崎さんから「本みやけに行こう」と、夕食のお誘いを受けました。本みやけは、朝日放送の一階にあったいくつかの飲食店のひとつで、「一人すき焼き」を食べるのが楽しみでした。

席に座ると、ちょうど6時になり、お店のテレビで、「笑って!笑って!30分」月曜日が始まりました。長崎さんがディレクター、私は新人ADとして、この番組に関わっていました。まさに我らが番組です。

「なんば花月」の舞台で収録する、この番組の中心は笑福亭仁鶴さん。番組の前半は「ステレオ落語」と題して、落語のネタをゲストとともにコントを演じます。そして後半は仁鶴さん司会の大喜利でした。

「ステレオ落語」でいきなり仁鶴さんと絡むべく、ゲストのチャンバラトリオのメンバーが順番に登場してきました。

「なんやこのスーパーは!」
と突然、長崎さんが怒りを含んだ声を上げました。その人物の名前のスーパーテロップが「リーダ」となっていたからです。
「この人は、山根伸介やないか!リーダというのは、リーダーという、チャントリでの山根さんの役割から来た愛称なんや」
「すみません。知りませんでした」
とすぐ謝ったものの、私はこう思っていました。

あれ?おかしいなぁ。台本作家の檀上茂さんは、この役を演じる人物の名をちゃんと「リーダ」と書いている。変な名やなぁとは感じつつも、檀上さんのお墨付きがあるのだから、これこそ芸名であるはずだと判断して、あえてそのスーパーを入れたのです。

そのことを長崎さんに伝えると、「そういうわけやったのか」と、意外にもすぐに理解してもらえました。

やがて、次のメンバーが登場しました。私は台本に書かれている通り、「かしら」と、スーパーを入れていました。
それを見て、長崎さんはプッと吹き出しました。
「これも愛称や。チャントリでいちばん年長やから『かしら』ちゅうんや。ほんまは南方英二」
「あ、なるほどそうなんですか」

次にまた、もう一人が登場しました。舞台では「かしら」が操るハリセンチョップで、いつもどつかれていた人です。この人の愛称と思われる呼び名も独特でした。アップになったとき、大きく、「アチャ」というネームスーパーが出ました。これは、長崎さんを「バッテン」とスーパーするのと似たようなことでしょう。

そのスーパーを見た途端、長崎さんは口を大きく開けて、爆笑しました。
「お前、なにやっとるんや!伊吹太郎やないか!」
長崎さんはひとしきり笑ったあと、一人すき焼きは奢ってくださいました。

「チャントリさんには、台本と新米の事情ゆーて、あとで謝っといたるわ」
 
長崎さんは数年後、朝日放送の社内報だった月刊『あんてな』に、私のことをどういうわけか「奇才」と呼んで紹介してくださったことがあります。

私が奇なる才の持ち主とは?

そこにはきっと「アチャ」のスーパーで初めて爆笑させられたことなど、「ボケ」の典型であった「弟子」である私と過ごした愉快な日々の記憶が作用していたのだろうと想像されるのです。

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