メタル侍
2003年映像部門から宣伝部門に戻り、その後、部門統括になった頃、当時のCEOの廣瀬さんから、エフエム京都、京都府と手掛けた音楽フェスCOOLBEAT in KYOTO2005に続いて、再び京都府からの依頼で、東映京都撮影所と何か新しいことをやると言われた。何よりも憧れの東映京都との仕事なのだ。数々の名作が頭をよぎり、心踊る。初めて打合せに伺った前夜は眠れなかった。往きの新幹線は高いびきで爆睡していたのだが(笑)
若手の助監督や、アシスタントプロデューサーから企画を社内公募して、配信にも対応できる映画を作りましょうと言うことになり、
結果として兼崎さんという若手が出した『メタル侍』という、時代劇と音楽という2社の持ち味を生かす企画に決まった。中学生がノートに描くような主人公のイラストが笑えた(兼崎さんの名誉のために一言付け加えると、美大出身で、画力は素晴らしいのだが)。ちょうど、昔LOUDNESSでお世話になったNさんから新人のバンドの売り込みもあり、音楽も決まった。
兼崎助監督、福島アシスタントプロデューサーの独り立ちになる。彼らの熱意が撮影所の若手やベテランを動かし、スタジオが熱を帯びて、本当に楽しい現場になった。
第1シーズンを撮り終わった時に、東京で東映と共同で記者会見をやる話が出たので、ゆうばり映画祭に出したくて、コンペの募集は終了していたが、事務局長の外川さんに頼んで上映を認めてもらった。夕張ならでは、眠るのも惜しい2泊3日だった。上映も、ほぼ満員で、笑いも度々起こっていた。東映の若い二人が、映画祭を本当に楽しんでいたのが何よりも嬉しかった。まだ、3シーズン迄制作準備か進んでいたが、何か成し遂げた気持ちになってしまった。
実は個人的に、その前年の暮れに、テレビマンユニオンの若いディレクターの友人が、そして年が明けたら、キッズステーション~エフエム京都とお世話になっていた田中さんが相次いで亡くなって、その年の8月で50歳を迎えるに当たって、このまま新卒で入った会社に居続けるのか悩んでいた。入社以来、辞めなきゃまずいかなと言う失敗やトラブルで、進退伺いも何度も書いたりしたが、その度に、社内外の人に助けられて来た。
2008年レコード業界はもう待ったなしだし、外で頑張った方が恩返しになるのでは、とも思ったのだ。夕張~千歳~羽田空港からの最終のリムジンバスで吉祥寺に着いて、この企画を一緒にやってきた、入社同期でもある役員のHに時間を貰い、明朝、希望退職に手を挙げると告げた。強く慰留されたけれど、いつも優柔不断な癖に一度決めると、気持ちが、全て晴れやかになった。あれから12年、成功しているとは全く言えないが、不思議と後悔はない。
故人となられた田中さん、廣瀬さん、外川さん、当時は、本当にお世話になりました。ありがとうございました。
メタル侍予告編
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