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【随想】 「平和」について

 日本人に告ぐ。

 現在いま、 ヨーロッパ世界で起こっている戦乱を「遠い国の出来事」と楽観視して天下泰平の大欠伸おおあくびをしているときではない

 対岸の火事を知らせるサイレンで、泰平の惰眠から目覚めねばならない。
 危機は間近に迫ってきている。
 だが、多くの日本人の目覚めは悪い。自分に家に火が燃え移っていても、眠り続けている国民性である。
「戦争放棄しているから自分たちは戦争に巻き込まれない。ムニャムニャ」
 と、寝言を言いながら……。 

 地球のいたるところで不穏な空気が垂れ込めている。息苦しいほどに……。
 それは極東世界も例外ではない。傍若無人な国々の欲望がグルグルと渦巻いている。今や極東世界は“野盗の巣窟”と化している。
 そんな状況下で──、

「非武装 戦争放棄 平和主義」

 このの主張を聞くと、いつも恐ろしくなる。
 耳触りの良い言葉は「絵に描いた餅」。
 画餅は“希望的観測”という甘いあんこに包まれている。
 人の心は、その甘い味に滅法弱い。甘味は人の現状認識能力を鈍らせ、危険の道へといざなう。

「非武装 戦争放棄 平和主義」

 現在いま、極東世界における日本は、野盗の根城の門前で全裸はだか同然の格好で小銭こがねを抱えて眠りこけているようなものだ。 
 そんな“極東世界=野盗の巣窟”の直中ただなかにあって、日本はどうあるべきか。

 「平和」とは丸腰では実現できない。

 それは歴史が証明している。
 
 東北地方に黄金文化を築いた藤原氏が、武装集団・鎌倉軍を退けることができたか?
 外堀、内堀を失った大坂城に拠った豊臣氏が、徳川時代を生き抜くことができたか?
 飛ばない大砲しか持たない徳川幕府が、ペリー艦隊の恫喝を払い除けることができたか?

 答えは「否」。
 武力ちからに勝っている側が、そうでない側を常に屈服(若しくは滅亡)させているではないか。 「平和」とは、武力ちから有る者だけに許された特殊な状況である。

 戦いには「勝たねばならない戦い」と「敗けてはならない戦い」がある。
 自国を護る戦いは、当然、「負けてはならない戦い」である。 
 もし破落戸ならずもの国家が攻め込んできたら、どうすべきか。

 日本は自らの軍事力ちからで国を護らねばならない。

 自国防衛に外国(特に西欧諸国)の軍隊の軍事力ちからを当てにしてはならない。
 なぜなら、西欧人にとって日本人は“差別すべき人種(有色人種)”であるからだ。国際社会の建前は兎も角、「人種差別」の根が深いことを忘れてはいけない。いざとなれば、西欧人彼らはいとも簡単に有色人種われわれを切り捨てるだろう。「有色人種われわれは“差別される側”の人間」ということを肝に銘じておかなければならない。

 有史以来、戦乱を繰り広げてきた西欧人は、「相手に期待を抱かせて裏切ること」を専売特許にしている。それに対し、日本人は相手国の有るかどうか判らぬ善意に過度の期待を掛けてしまう癖がある。悪い癖だ。
 そんな「お人好し」の価値観が世界に通用するとは到底思えない。
 「お人好し」過ぎては、肝心なところで足をすくわれる。それでは、国が幾つあっても足りはしない。


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