【随想】 考えるコトを考える
最近、“時間”が無い。
──と言っても、時間は年齢、性別、学歴、収入……その他諸々の条件に関わらず万人に平等に分け与えられる“資源”であるから、「無い」というコトはない。ただただ、“勉強”に割り当てる時間が無いのダ。
勉強したいコトは、タンとある。歴史学、生物学、哲学、数学、心理学、民俗学、天文学、考古学、農学、東洋医学、未確認動物学、超古代文明……ets。されど、平日の昼間に仕事をもっている身分では、なかなか勉強する時間が取れないのが現状だ。嗚呼。
そんな弱音を吐くと、「だから、学生のとき勉強していれば良かったンだ。それこそ“後悔先に立たず”だ」と手厳しい意見の集中砲火を浴びるやも知れない。
が! 言わせてもらえば、「人間、社会に出てはじめて“学ぶコト”の意味を知るものダ」。
社会に出てからの勉強は自発的なモノだ。知識を一方的に押し付けられる学生時代とは異なる。
『映像研には手を出すな!』(小学館)の金森まぐな師匠も仰っているではないか。「頭を押さえつけられて知識を流し込んでも何にならん」と。
その通り、学校で強制的に覚えさせられた知識で、齢50を過ぎた現在、老生の記録回路に遺っているモノは皆無に近い。ほとんどの少年少女は教室内で疲弊する。
精神を“死に体”にしては不可ない。
この世の森羅万象を一粒ずつ“好奇心”のピンセットで摘み上げ、「これは何じゃろ?」と観察・考察する。「はてな?」と感じた物事を、自分で考え解き明かしてゆく。この感覚は、自らの手で未知の“果実”を捥いで味わう喜びと似ている。それはナニモノにも代え難い喜びである。この喜びを放棄しては、ヒトとして現世に産まれ出た甲斐もない。
さらに、金森師匠の言葉が脳内に響く。「なんのために生きているのか なんのために学ぶのかを考えろ。考え続けることをやめたらおしまいだ」。
たしかに、“考えるコト”はヒトに許された“特権”でもあるのだから。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?