【随想】 「親との事情」の話
「少年よ、大志を抱け!!」
と、チマタの大人はお気楽に言ふてくれる。当の少年(少女も含む)が抱きたい「天下の男(女の子もね)と言われたい」という青雲の志は、甚だ実現し難い世の中だというのに……。
世に棲む少年少女の多くは生まれながらにして、さまざまなシガラミに囚われている。その最たるものは“親の期待”ではないか。このシガラミほど強固な呪縛は、この世に存在しないだろう。それをアレクサンドロス大王が“ゴルディアスの結び目”を断ったが如く、「スパッ!!」と快刀乱麻とはいかない。絡め取られたまま少年少女は、卍固めな雁字搦めの人生に陥るのだ。
イイ学校に入ってイイ会社(役所も有り)に就職することがイイ人生だ。だから愛する我が子には、そんな「イイ」が詰め合わさった人生を歩ませたいと親たちは熱望して止まない。子供の事情などお構いなしに……。
特に「苦労人」を自称する親ほど、この想いは猛烈だ。己の価値観は“絶対善”とばかりに、親の価値観を子供へグイグイと押し付けまくる。その有様は、今や絶滅職業となった“押し売り”並みの強引さじゃ
このとき、親の期待と子供の夢が合致すれば何の問題も発生しないだろう。しかし、もし不一致ならばお互い悲惨な目に遭うは必定。孟母三遷も度が過ぎれば、百害あって一利なし。我が子を親の期待で潰しかねない。
己の期待を“押し売り”する親の自己満足的な言動は、我が子の“存在”を認めていないと同じである。古代ギリシアの哲学者は、「人の最高の幸福は、他人に認められることだ」と説いている。それが最も身近な他人である肉親に認められていないとなると、少年少女は自分自身に失望するようになるであろう。「自分はなんて不幸な人間なんだ」と。
そんな親の言動に子供は、儒教が曰う「父子の親」の教えに則り親の意向に従わざるを得ない。「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」と権現様は仰ったが、それ(=親の期待)は計り知れぬ程の重荷なのだ。そう、“扶養家族”とはつらい立場なのじゃ。
たしかに親が敷設したレールに従って生きることは、ある意味気楽な人生であろう。分岐点で思い悩む必要がないのだから。
けれど、いつまでもあると思うな親と金、もしそのレールが途切れてしまったら……。少年少女は己の進むべき路を見つけられず、迷い迷いの藪小路を彷徨う羽目になる。或人が言った。「誰かに連れられて歩くほど不幸なものはない」と。
少年少女の日々は有限である。
この世に産まれ落ちた瞬間から「生」は一秒一秒確実に「死」へと向かっている。だから、「明日がある〜ぅ、明日がある〜ぅ♪」などと悠長に唄っているイトマは微塵も無い。今日の次に明日があるとは限らない。一寸先は闇の中。少年少女の日は一瞬だ。そんな蜉蝣の如き儚い人生を無為に過ごしてはならない。
硯を相手に徒然なるまま日暮らししていた兼好法師は、「しようか、しまいかと迷う事はおおかたしないのがよい(『徒然草』第98段)」と申していたが、それじゃあ、あまりにも消極的過ぎやしないか。夢を押し殺し悶々と過ごすのも人生なら、己の潜在能力を信じ大博打に出るのもまた人生じゃ。
古人の言葉に、「己の道は己で拓け」というものがある。たしかに他人と違った道を歩くのは至極難儀なことだ。しかし、それ以上に困難な生き方は、自分の意に沿わぬ道を歩くことだ。己が切り拓いた道の先には、開拓者だけが獲得できる「よろこび」が待っているはずだ。きっと。
人は哀しい生き物である。つらくなると、ついつい「あのとき、ああしておけば……」と愚痴をこぼしてしまう。“あのとき”はけっして戻っては来ないことを知りながらも。
老婆心ながら老生の経験から申さば、「迷ったときこそ実行すべし」だ。そして悔い無き人生を送るには、一生を賭けるに値する“何か”を見つけ出すことだ。少年少女時代は、それを見つけるための人生の準備期間だといえる。その“何か”は、本人以外には土塊ほどの価値にしか感じられないかも知れない。しかし、本人にとっては何物にも代え難い価値をもっているはず。他人の批評を気にすること無かれ。
虎は死して皮を遺すが、人は人生に悔いを遺してはいけない。