【随想】 凶賊跋扈の世界で
ふと思う。
第二次世界大戦末期、なぜ米国は日本に原子爆弾を投下したのだろうか?
しかも2発も。これは長年の疑問であった。
ところで、ロシアとウクライナの戦は長期化の様相を呈している。その原因は、西欧諸国がロシアの非道を放置しているからに他ならない。
何故、そのような非道が罷り通る事態に陥ってしまったのか?
それは、西欧諸国がロシアから供給されるエネルギーに依存しているからだといわれている。
ロシアを怒らせたら、エネルギーが絶たれてしまう。
そしたら明日の暮らしにも困ってしまう。国家の生命線を掴まれていては、たとえ相手が破落戸でも強い態度では臨めない。御機嫌をとるしかない。
それでも国際的視線を気にして、ロシアに対する「経済封鎖」を試みるが、その効果まったく無し。なんせ、封鎖している方の経済が麻痺してしまうのだから仕様がない。まるで、兵糧攻めをしている側が兵糧不足に喘いでいるようなもんダ。
けど、西欧諸国が強硬策に出られない理由は、エネルギーの問題だけではない。もっと深刻な理由がある。それは何か。
それは、ロシアが“核保有国”という事実である。これほど厄介な事実はない。
ロシアを追い詰めてはならない。
窮鼠は猫を噛むが、追い詰められた旧ソは核を射ってくる。
人類が犯した大罪は、この地上に“太陽”を創り出してしまったコトだ。
そうは言っても、核兵器は使わないことで威力を発揮する凶器である。もし何処かの国が核兵器を使用したら、そこから雪崩の如き“負の連鎖”が発生する。
核攻撃の応酬が始まるのダ。
核兵器が通常兵器と変わらぬ兵器となる。そして、誰も核攻撃に何の躊躇いも感じなくなる。そんな核の脅威に鈍化となった世界で、次に何が起こるのか。
それは核兵器を超える“超兵器”の開発競争である。
もし超兵器が実戦で使われたら、そのときは人類どころか地球そのものがこの世から消えるときでもある。
だから西欧諸国は怖れているのダ。
「誰がロシアに核のボタンを押させたのか」
という非難の集中砲火を。
そんな昨今の世界情勢を踏まえ、最前の「なぜ米国は日本に原子爆弾を投下したのか?」の答えを考えてみた──否、この問いは「なぜ投下したのか?」ではなく、「なぜ投下できたのか?」とした方がより正確ではないか。
現在、西欧諸国はロシアの核による反撃を怖れる余りウクライナ支援が出来ないでいる。
それに対し、第二次世界大戦末期の米国は、日本が原子爆弾以上の兵器で反撃できないと判っていたからこそ、堂々と原子爆弾を投下したのダ。まるでダウン寸前のボクサーに、“カミソリアッパー・カット”を喰らわすようなものダ。
いつの時代もより強い武器を持った国が、持たぬ国に襲いかかってくる。弱き国は凶賊に蹂躙され尽くし、敗者は土地を追われ流浪の民と化す。
現在、我が国の周囲を見回してみれば、北方や南方から破落戸たちの魔の手が迫ってきている。
緊急事態である。
だから、いつまでも「平和憲法」云々、「武器を持ってはいけない!」「戦争反対!」などの議論に時間を浪費している場合ではない。戦闘が始まってからでは遅いコトが理解らぬのか。
我が国を護るためには、相手の戦意を挫く武器が今すぐにでも必要なのだ。
破落戸は、自分より弱い者には猛犬となり、強い者には仔犬となるのだから。
恐れられろ。
国の独立を維持したくば、八方美人な弱腰外交をかなぐり捨てねばならない。破落戸国家の野心を打ち砕くためにも武器を手にしなければならない。
恐れられろ。国の独立を奪われぬために。
恐れられろ。霊験を携えた龍の如く。