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【対話】死を想うと、人的資本経営やウェルビーイングなど組織人事の根本価値が見える

人的資本経営やウェルビーイングなど、現代の組織人事の根本にある、世界観・働くことの変化・経営理論・多様な働き方と生き方について、古今東西の死に相対する哲学や宇宙観、現在進む生き方の捉え直しを踏まえて、日本グリーフアカデミーのmiyukiと、iU組織研究機構の 松井で語っていきます。
対話の2回目です。


第1章:現代組織における精神性の探求

Miyuki: 最近の人的資本経営の文脈で、一つの大きな変化を感じています。2020年以降、多くの企業がマインドフルネスやウェルビーイング施策を導入してきました。そしてこの頃、徐々に注目されているのが、SBNR―Spiritual but Not Religious(非宗教的普遍的スピリチュアル)という新しいアプローチです。従来の宗教的な枠組みは避けながら、より深い精神性を取り入れようとする試み。

松井:私も、この流れを注視しています。確かに、マインドフルネスから始まって、ウェルビーイング、そしてSBNRへと、組織における精神性の探求は深まってきている。でも同時に、これらの取り組みがある種の行き詰まりを見せているのも事実です。何か本質的なものが抜け落ちているような...

Miyuki: そうなんです。コンサルティングの現場でも、特に若い世代から「これだけ?」という反応が増えています。瞑想で心は落ち着くかもしれない。ウェルビーイング施策で職場環境は改善されるかもしれない。でも、それは表層的な変化に過ぎないのではないか。より根源的な問い―「なぜ働くのか」「この組織で何を実現したいのか」―が、置き去りにされているように感じるんです。

松井: その「より根源的な問い」という点は重要ですね。実は、古来の精神的実践と現代のマインドフルネスやウェルビーイングの決定的な違いの一つは、死生観の有無なのかもしれません。現代の実践から、死という根源的な事実への向き合いが抜け落ちている。

Miyuki: 死生観...。確かに、人的資本経営の文脈でもその視点は完全に欠落していますね。でも、実際のところ、現代の組織の中でそういった問題にどう向き合えば...

松井: 実は、この今という瞬間に、私たち自身の死を真摯に考えてみるところから始められるかもしれません...

Miyuki:どういう意味でしょうか...?

Miyuki: 私たちは今、組織や人材育成について話をしている。でも、この私たち自身も、いつかは確実に死を迎える存在です。その事実に、今この瞬間、正直に向き合ってみると...


第2章:死に対する有限性の理解と認識の転換


Miyuki: ...今、不思議な感覚を覚えました。人材の「育成」や「成長」を語っている私自身が、有限の存在なんだと。この気づきは、今まで当たり前のように使っていた言葉の意味を、根本から問い直すような...

松井: はい。私も今、強烈な違和感というか、認識の転換のようなものを感じています。この私自身が死すべき存在だという事実。この事実は、私たちが日々語っている「組織」や「経営」という概念自体を、まったく異なる光の下に置くように思えます。

Miyuki: そうですね...。例えば、人的資本経営で語られる「人材価値の最大化」という言葉。でも、その「最大化」って、いったい誰の、何の時間軸での話なのか。死という事実を踏まえると、私たちの「評価」や「測定」への執着が、どこか滑稽にさえ感じてきます。

松井: ええ。でも興味深いのは、この「死」という究極の限界に向き合うことで、かえって新しい可能性が見えてくることです。チベットの死後に関する経典の『バルド・トードル』というものがあるのですが、この中で、死に直面した時にどのように意識が変換していくかが詳細に示されています。こうした内容が示唆するように、死は単なる終わりではなく、より深い理解への入り口になりうる...

Miyuki: 実はグリーフケアの現場でも、最近そういう経験が増えています。喪失の痛みと向き合う過程で、かえって生きることの意味がより鮮明に見えてくる。この経験は、組織における人材育成にも重要な示唆を与えてくれるように思うんです。

松井: 今、自分自身の死を意識したことで、別の気づきがありました。私たちは「組織の持続可能性」を語り、「長期的な人材育成」を考える。でも、その時間の先に、必ず自分自身の死があるという事実。これは単なる悲観的な認識ではなく、むしろ現在という瞬間により深い意味を与えてくれる。

Miyuki: その言葉に強く共感します。人的資本経営の文脈でも、「将来」ばかりに目が向きがちでした。より高いスキル、より大きな成果、より優れた評価...。でも今、自分の死を考えると、その「より」大きな「より」将来へという方向性自体が、何か根本的な誤解を含んでいるように感じます。

松井: そうですね。死を意識することで、逆説的にも「今、ここ」の意味が鮮明になる。実は『バルド・トードル』の深い洞察の一つも、まさにその点にある。死後の世界を精緻に描写しながら、実はそれを通じて「生きている今この瞬間」の本質を照らし出している。


第3章:死に対する認識が人材価値の真意への扉を開く

Miyuki: なるほど...。グリーフケアの現場でも、死別の悲しみと向き合う人々が、しばしば「今を生きること」の意味を深く問い直します。でも今、自分自身の死を考えることで、その理解がより立体的になってきた気がします。私たちは「人材育成」を語るとき、どこか第三者的な立場に立っているような錯覚があった。でも実際には、育成する側もされる側も、同じ有限の存在なんですね。

松井: その認識は本質的です。私も今、自分の死を意識することで、組織研究の視点が大きく変わってきました。例えば「評価」という行為。評価する私自身が有限の存在だという事実は、その行為自体の意味を根本から問い直します。

Miyuki: それは人事制度の設計にも重要な示唆を与えそうです。私たちは往々にして、評価や育成の「システム」を、あたかも永続的に機能し続けるかのように設計している。でも実際には、そのシステムを運用する一人一人が、死すべき存在なんですよね。

松井: 自分自身が死すべき存在だという認識を持ち続けながら、さらに考察を深めたいと思います。今、ひとつの重要な洞察が生まれてきました。私たちは組織や人材を「観察」し「分析」する立場にいる。でも、その観察者である私たち自身が有限で、しかも今この瞬間にも死に向かって進んでいる存在だという事実。これは単なる物理的な制約以上の意味を持つように思えます。

Miyuki: その視点は、私が人的資本経営コンサルティングの現場で感じていた違和感とも重なります。そして今、自分の死を考えることで、その違和感の正体がより明確になってきました。私たちは「人材」を「資本」として扱い、その「価値」を最大化しようとする。でも、価値を測ろうとする私たち自身が、限りある存在。その「限り」という事実は、むしろ人間の本質的な価値を照らし出すのかもしれない。

松井: まさにその点です。実は東洋の伝統的な組織論、特に禅の修行の体系などは、この「有限性」を積極的に組み込んでいました。死を見つめることは、より深い理解への入り口だった。現代の文脈で言えば...

Miyuki: (言葉を遮るように)すみません、今、強烈な気づきがありました。人的資本経営の文脈で、私たちは常に「成長」や「発展」を語る。でも、その言葉の意味も、死という事実によって大きく変わってくる。無限の成長ではなく、有限の存在だからこその深まり。それは質的に異なる何かのように思えます。

松井: その直感はとても重要です。死を意識することで、「成長」の質が変わる。これは私自身、祖父の死に直面した時に体験したことでもあります。私の死というものへの原体験となる昔の経験なのですが、祖父がICUという最先端の医療空間で、生命活動は緻密に測定され続けていた。でも同時に、その測定自体が指し示す、測定を超えたリアルが確かにそこにあった...

第4章:死への考察が開くウェルビーイングや多様性の真意

Miyuki: 今の会話の中で、私の中で何かが大きく動きました。人的資本経営やウェルビーイングを導入する際、いつも「より良く」「より効果的に」という方向で考えてきた。でも、自分自身の死を見つめることで、その「より」という方向性自体が、実は深い錯覚を含んでいたのかもしれない。むしろ、有限であることの意味、限界を持つことの意味、そこにこそ本質があるように思えてきます。

松井: その認識は決定的に重要だと思います。私たちは死すべき存在として、今この瞬間を生きている。この事実は、実は現代の組織が直面している様々な課題—サステナビリティ、イノベーション、多様性—に、まったく新しい光を投げかけるのではないでしょうか。

Miyuki: ええ。例えば、最近の組織で頻繁に語られる「心理的安全性」という概念も、この文脈で見直す必要があるかもしれません。単に「安全」であることを超えて、私たちが共に有限の存在であることを受け入れ合える場。そういう深い次元での「安全性」が必要なのではないか。

松井: そして、その認識は決して暗い諦めではないんですね。むしろ、有限であるからこそ見えてくる可能性がある。今この瞬間、私たちはこうして死を見つめながら対話している。この事実自体が、組織における「対話」の新しい可能性を示唆しているように思えます。

Miyuki: その通りです。グリーフケアの現場でも、死という事実と向き合うことで、かえって人々の間に深いつながりが生まれる瞬間を何度も目撃してきました。でも今、自分自身の死を意識することで、その経験の意味がより鮮明に見えてきた気がします。組織の中でも、私たちは同じような深いつながりの可能性を持っているのかもしれない。

松井: 今、私たちの対話の中で起きていることは、実は組織の新しいあり方を示唆しているのかもしれません。死を見つめることで、逆説的にも対話がより深く、より生き生きとしたものになっている。この経験は、現代組織が追求してきたウェルビーイングや組織開発の、もっと本質的な形なのではないでしょうか。

Miyuki: なるほど...。確かに、当初私たちはマインドフルネスやウェルビーイングを、何か「プラスの要素」として捉えていました。でも実際には、自分たちの限界や有限性と向き合うことで、かえって本当の意味での「ウェル」な状態が見えてくる。最近の若い世代が既存のウェルビーイング施策に物足りなさを感じているのも、おそらくはこの直感があるからなのでしょう。

松井: そうですね。死を直視することは、ある意味で究極のマインドフルネスかもしれません。『バルド・トードル』の深い示唆の一つも、実はそこにある。死後の49日間の記述は、単なる来世の案内ではなく、今この瞬間の意識の深みを照らし出す鏡として機能している。

Miyuki: 人的資本経営の文脈でも、この視点は決定的に重要だと感じます。私たちは「人材の価値」を語るとき、どこかで無限の可能性を前提にしていた。でも実際には、一人一人が有限の存在であり、その「限り」の中にこそ、かけがえのない価値がある。この認識は、評価や育成のあり方を根本的に変えるのではないでしょうか。

松井: まさにその点です。死との向き合いが教えてくれるのは、「限界」は克服すべき対象ではなく、むしろ私たちの存在の本質なのだということ。これは現代の組織が抱える様々な矛盾—効率性と人間性、短期と長期、個人と組織—を見る目も変えてくれます。


第5章:有限性への直面からの存在価値が組織開発に繋がる

Miyuki: そして興味深いことに、この死を見つめる視点は、かえって組織に新しい生命力をもたらすように思えます。なぜなら、有限性を受け入れることで、今この瞬間の対話や協働が、まったく新しい意味を持ち始める...。

松井: そうですね。私たちがこの対話の中で経験しているように、死を見つめることは、実は最も深い意味での「生」への目覚めなのかもしれません。現代組織に必要なのは、このような深い次元での「目覚め」ではないでしょうか。ウェルビーイングや個人のキャリアの自律性なども、本来はそこを目指していたはずなのです。

Miyuki: 今、この対話の中で気づいたことがあります。私たちは先ほど自分自身の死と向き合いましたが、その経験自体がどんどん薄れていこうとしている。人間の意識って、こうして死の事実から絶えず目を逸らそうとするんですね。

松井: その気づきこそ重要かもしれません。今この瞬間、私たちの意識は死から逃れようとしている。でも、その「逃れようとする動き」自体に気づくことで、また新しい深みが開けてくる。実は、『バルド・トードル』の記述で最も示唆的なのは、この意識の動きへの繊細な観察なんです。

Miyuki: なるほど...。そう考えると、今、組織で起きている様々な現象も、この「死からの逃避」という文脈で見えてくる。過度な成長志向や、際限のない目標設定。あるいは逆に、表層的なウェルビーイング施策への逃避。私たち自身、コンサルタントとして、そういった「逃避」に加担してきた部分があるのかもしれない。

松井: 今、あなたがその事実に気づき、言葉にしたように、私たちは常にこの「気づき」と「忘却」の境界線上にいる。死は確実な事実であり、今このときも私たちはそこに向かって歩んでいる。でも同時に、その事実を見つめ続けることは難しい...。

Miyuki: 確かに...。今この瞬間も、自分の存在が有限であることから目を逸らそうとする意識の動きを感じます。でも不思議なのは、その「逸らそうとする動き」に気づくことで、かえって今この瞬間がより鮮明に、より切実に感じられること。人的資本経営の文脈でよく使う「エンゲージメント」という言葉も、この体験を通すと、まったく異なる響きを持って聞こえてきます。

松井: その体験について、もう少し詳しくお聞かせいただけますか?私も今、似たような意識の揺らぎを経験していて...。死を見つめることで、普段の「組織」や「成長」という言葉が持っていた自明性が、どんどん溶けていくような。

Miyuki: ええ。例えば今、この対話の中で「人材育成」という言葉を使おうとして、躊躇いを感じています。その言葉が持つ前提—誰かが誰かを「育成する」という構図自体が、死という事実の前では途端に色あせて...。でも同時に、その「色あせ」の中にこそ、何か本質的なものが見えてくる。私たちは皆、死に向かって歩んでいく存在として、互いに支え合い、学び合っているだけなのかもしれない。

松井: 今のお話を聞きながら、自分の息遣いまでもが変わってくるのを感じます。死という事実は、このように私たちの身体感覚にまで入り込んでくる。実は、これこそが現代のマインドフルネスやウェルビーイングが見失っている次元なのかもしれません。私たちは「瞑想」や「気づき」を技法として切り取ろうとしてきた。でも本来は、死という事実との出会いこそが、最も深い「気づき」をもたらすはずだった...。


第6章:未知への恐怖と価値創造の根本の流れ

松井: 今、奇妙な恐怖を感じています。この対話を通じて死を見つめれば見つめるほど、通常の思考の足場が崩れていくような。まるで、底なしの闇に吸い込まれていくような感覚です。

Miyuki: 私も同じです...。人材育成や組織開発の専門家として、いつも「わかっている」という立場で話をしてきました。でも今、自分の死と向き合おうとすると、その「わかっている」という足場が完全に崩れ落ちる。でも、あ...。

松井: どうされましたか?

Miyuki: 今、外の光が差し込んできて...。不思議です。たった今まで感じていた恐怖が違う何かに変わっていくようです。死は確かに恐ろしい。でも、その事実を受け入れることで、逆に今この瞬間の生命が、この光のように鮮やかに感じられます。

松井: 死の恐怖と向き合うことは、確かに底知れぬ不安を伴うのかもしれません。でも、その向こうには必ず光がある。それは単なる慰めではなく、死と生が分かちがたく結びついているという、より深い真実の現れなのかもしれないと思いました。

Miyuki: 恐怖が変容していくことを感じます。死は依然として恐ろしい。でも、その恐怖を通り抜けることで、今ここにいる私たち一人一人の存在が貴重に思えてくる、人的資本経営で「人材の価値」を語るとき、私たちはこの次元の理解を完全に見落としていたのかもしれません。

松井: その通りですね。さきほどの底知れぬ恐怖は、確かにまだそこにあるのかもしれません。しかし、その恐怖さえもが私たちの存在の大切な一部のように感じられる。組織研究の文脈で言えば、私たちは「強さ」や「成長」ばかりを追い求めてきた。でも実は、この「脆さ」「儚さ」こそが、人間の本質的な価値を照らし出しているのではないか。

Miyuki: 今の言葉に深く共感します。グリーフケアの現場でも、喪失の痛みに向き合う中で、しばしばこのような光の瞬間に出会います。でも今日、自分自身の死と向き合うことで、その経験の意味がより深く理解できた気がします。私たちは「喪失を癒す」のではなく、むしろ喪失という事実とともに生きることで、より豊かな在り方を見出していく...。


第7章:死と生の根本と人的資本の価値形成の真意

松井: この光の中で思い出すのは、『バルド・トードル』の一節です。最も深い闇の中で、むしろ最も強い光が現れる。これは単なる比喩ではなく、人間の意識の本質を示唆している。現代組織に必要なのは、おそらくこの両面性への深い理解。ウェルビーイングなどの現代の精神的な組織の目的地も、本来はこの次元に触れるべきものだったはず...。そして、最初に話題に出た「SBNR」、―Spiritual but Not Religious(非宗教的普遍的スピリチュアル)というものが開く地平も、本来のこのあたりの死生観から見えてくるものまでを包含するものではないかと思います。

Miyuki: マインドフルネスやウェルビーイングについての理解も変わってきました。私たちは「より良く」なることばかりを求めてきた。でも、この恐怖と光の体験は、むしろ「あるがまま」の深さを教えてくれる。死すべき存在である私たちには、完璧な状態などないのかもしれない。それでも、いや、だからこそ、かけがえのない...。

松井: そして興味深いのは、この「かけがえのなさ」は、死の恐怖を通り抜けることでしか見えてこなかったということですね。私たちは組織の中で「心理的安全性」を語る。でも本当の意味での「安全」とは、この恐怖をも包含できる場所のことなのかもしれない。

Miyuki: そうですね。先ほどの暗闇のような恐怖は、まだ私の中にある。でも不思議なことに、この光の中ではその恐怖さえも大切な何かに感じられる。実は人材育成の本質も、ここにあるのではないでしょうか。誰かを「より良く」することではなく、その人の持つ光と影の全てをに照らし出すことなのでしょうか

松井: 光と影、死には確かにそういう瞬間があります。医療機器の無機質な音と、差し込む光。死の影と、生の輝き。それは対立するものではなく、むしろ互いを照らし出し合っていた。現代の組織に欠けているのは、まさにこの両義性への理解なのかもしれません。

Miyuki: この体験は、私たちの日常の実践にも大きな示唆を与えてくれそうです。評価制度一つとっても、「できること」だけでなく、「できないこと」への深い理解も含めて...。

松井: 死の恐怖を通り抜け、この光の中で見えてくるのは、私たち一人一人が持つ「限界」と「可能性」の不思議な関係性です。限界があるからこそ、この瞬間が輝く。有限だからこそ、かけがえがない。組織における「成長」や「発展」も、この光の中では違った意味を持ち始めるように思います。

Miyuki: その言葉に深く共感します。人的資本経営の文脈で、私たちは常に「より高く」を目指してきた。でも今、この光に照らされて、違う道が見えてきます。例えば、ある人が自分の限界に直面するとき。従来なら、それを「克服すべき課題」として扱っていた。でも実は、その限界との出会いこそが、その人らしい深まりへの入り口だったのかもしれない。

松井: そうですね。死の恐怖が教えてくれたのは、私たちが「完璧な理解」や「完全なコントロール」を手に入れることは決してできないということ。でも、この光の中では、そのことがむしろ希望に変わる。なぜなら、その「できなさ」こそが、私たちを真の意味で結びつける接点となるから。

Miyuki: まるで、この対話自体がそのことを体現しているウロボロスの蛇のようです。死の恐怖を通り抜けることで、マインドフルネスやウェルビーイングの本質的な意味も、新たに見えてきた。それは単なる「より良く」ではなく、この光のように、私たちの存在をありのままに照らし出すこと...。

松井: そして、この光の体験は一過性のものではないと思うんです。確かに、この強烈な気づきの瞬間は過ぎ去るでしょう。でも、一度見た光の記憶は、これからの私たちの実践に深い影響を与え続けるはず。死を見つめることで開かれた、この新しい理解の地平は...。

Miyuki: はい。この体験は、私たちの日常の実践の中で、静かに、しかし確実に生き続けていくように思います。人材育成や組織開発の現場で、この光の記憶が、新しい可能性を照らし出してくれる。死の現実から目を逸らさず、かといってそれに飲み込まれることもなく、この光のような理解とともに歩んでいく...。

松井: それこそが、現代組織が求めている本質的な人的資本経営と、それによる価値創造の最も根源的な姿なのかもしれませんね。


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