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ブラック校則の問題点は、ルールを適用される生徒自身がルールの決定に関与できないこと。

最近、脱ブラック校則のニュースをよく見かけるようになった。

脱パワハラ、脱ブラック校則、脱体罰と、世の中の身分階層構造がどんどん解体されていっているのは、いい流れだなーと思う。

ただ、ブラック校則の件って、「前髪は眉毛まで → ブラックか否か?」みたいに、そのルールがブラックであるかどうかを争点にしている節がある。

そうじゃなくて、ルールを適用される生徒自身がルールの決定に関与できない点を問題として捉えてほしいのよね。

日本って、民主主義国家よね。

「構成員が最終決定権を持つ」という民主主義の原則に沿うなら、校則の決定権は生徒自身にあっていい。

年齢からくる未熟さを考慮して大人がルールを制定したとしても、改正を提言して審議できる仕組みがないのであれば、それは独裁国家と同じ。

ただ強いられるだけのルールって、支配的な身分階層を象徴する最たるものであって、「大勢には逆らえない」という従属思考を刷り込む。

主体性のある人間を育てようと思うなら、教育現場の環境から変えていかなきゃならないと思う。

そもそも、ルールがブラックかどうかなんて、非常に主観的なものであり、時代の流れによって変化するのは当たり前。

そこを争点にしている限り、いつまでも続くよね。

根本解決にならない。

争点がそこに留まっている背景には、「先生と生徒、大人と子供の間には身分階層があってしかるべき」という潜在意識があるんだろうなー。

令和時代、そろそろそんな意識も解体して、学校も民主的になってほしい。

ちなみに、以前、見学させてもらったオルタナティブスクールでは、体育祭や修学旅行を生徒自らが企画する(企画しなければなくなる)仕組みになっていた。

ようするに、そういうことだと思う。

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