「好き」は、その何が「好き」であることを示しているのだろうか?
私は、「コーヒー」が好き。
だと思っていた。
香ばしいかおり、そして、ほろ苦さ。
「コーヒー好き」を自認していた。
あそこのコーヒーがおいしいと聞けば、訪ねていき、あれこれと家族と話していた。
そして、「コーヒー好き」は根底から覆された。
ある日、デパートで、「コーヒーマルシェ」なるイベントが開催された!
「コーヒー好き」を自認する自分にとって、このような素敵なイベントは、行かない理由がない。
ということで、早速足を運び、全国の選りすぐりのコーヒー店のコーヒーを少しずついただいた。
完敗!
種類の多さ。
香りの多彩さ。
ブレンドの無限さ。
楽しみ方の多さ。
などなど。などなど。
あまりの無限大さに、完敗した。
何もわかっていない。
その日以来、「コーヒー好き」と言わなくなった。
「好き」というにはあまりにも無知なので…。
恥ずかしくなった。
そして、不思議に思った。
自認していた「コーヒー好き」とは一体何をあらわしていたのだろうか?
同じシチュエーションに出会った。
「本好き」
これも同じだった。
これまでに相当数の本を読み、「本好き」を自認してきた。
しかし、あるとき書店で手に取った興味深いタイトルの「本」を開いたところ、まったく自分の中に入ってこない感覚が生じた。
「コーヒー」の時と同じだ…。
自認していた「本好き」とは一体何をあらわしていたのだろうか?
しかし…
今でも「コーヒー」は好きであるし、「本」も好きである。
あの日以来、どちらも嫌いになったわけではない。
ただ、「好き」の捉え違いをしていたのではないか?ということには気づいた。
ただ「コーヒーが好き」「本が好き」「○○が好き」と言ってしまうと、たくさんの「コーヒーが好きな人」「本が好きな人」「○○が好きな人」の中で一番好きといった比較をしてしまう。
だけど、「好き」と言う感情は、誰かと比較するものではなく、自分にとってそれが「好き」と言えるものがあれば、それでいいはずだ。
だから、その何を「好き」と言っているのか深掘りしたい。
私は「コーヒーが好き」と言っていた。
しかし、それは「コーヒー」そのものが好きだとは言い切れなかった。
でも、誰かと一緒にコーヒーを飲む空間、雰囲気、会話は好きだ。
「おいしいね。」とか、「苦いね。」とか、そう言える空間が好きだ。
晴れた公園で、カップに入ったコーヒーを飲みながら、ただただ時間を過ごすのも好きだ。
それを「コーヒーが好き」とあらわしていた。
○○が好き。
よく耳にする言葉だけれど、その指し示す「好き」は人それぞれ異なっている。
その何が「好き」なのだろうか?
自分にもっと問いかけたい。
今日も新しい気づきをありがとうございました。