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[2024/04/23] いんどねしあ風土記(53):世界遺産「ジョグジャカルタ哲学軸」が示すもの~ジョグジャカルタ特別州~(横山裕一)

~『よりどりインドネシア』第164号(2024年4月23日発行)所収~

2023年9月、国連教育科学文化機関(ユネスコ)はジョグジャカルタ特別州の都市空間を「宇宙論的枢軸とその歴史的建造物群」として世界遺産に認定した。一般的には「ジョグジャカルタ哲学軸」(Yogyakarta Philosophy Axis / Sumbu Filosofi Yogyakarta)と呼ばれ、インドネシアでは10件目の世界遺産登録である。この報はインドネシアでも大きく取り上げられたが、「ジョグジャカルタ哲学軸」とはどういうもので、どんな意味が込められているかは残念ながら地元住民を含め多くの人々に理解されていないのが現状だ。

ジョグジャカルタに王国が建設された1755年、都市構築の際に組み込まれた「哲学軸」には、古来からのジャワ信仰に加え、ヒンドゥー教、イスラム教の影響も受けながら「人間の誕生から神のもとへ帰るまで」が王宮を中心とした南北の直線上に表現されていて、当時の為政者の意図を含め興味深い意味が込められている。ジョグジャカルタ哲学軸を巡りながら、その意味と背景を紐解く。


「ジョグジャカルタ哲学軸」誕生の時代背景

「哲学軸」イメージ図(引用:Yuwono氏、ジョグジャカルタ特別州文化局)
ハメンクブウォノ1世(マンクブミ皇子)肖像画(引用:https://www.kratonjogja.id/)

世界遺産に登録されたジョグジャカルタ哲学軸とは、現在のジョグジャカルタの王宮(クラトン/Kraton)を中心に南北に一直線上に並ぶ地域のことを指し、北端のジョグジャカルタ塔(Tugu Pal Putih)から南端にあるクラプヤック櫓(Panggung Krapyak)までの約5キロである。「哲学軸」は後のハメンクブウォノ1世王でもあるマンクブミ皇子(Pangeran Mangkubumi)が1755年にジョグジャカルタに王宮(王国)を置いた際に、自らの考案で創り出したものだとされている。哲学軸形成の背景には、当時の激動の歴史が大きく影響していた。

18世紀前半、マタラム王国のスラカルタ(ソロ)王宮では、オランダ東インド会社による王位継承への干渉などもあり、内部対立が続いていた。結果的に王家と対立する立場に追い込まれたマンクブミ皇子は王家軍やオランダ軍との戦いで勝利を収める。この結果1755年2月、オランダ立ち合いのもとマンクブミ皇子はマタラム王と停戦の意味も含めたギヤンティ協定を結ぶ。協定には王家の分立や領土分割が盛り込まれていて、これによって今日に至る、スラカルタ王家とジョグジャカルタ王家の並立が確立する。

ジョグジャカルタ特別州文化局の元文化財専門家で王宮史研究者のユウォノ・スリ・スウィト氏によると、王家分裂当時、マンクブミ皇子が新王宮(王国)を置く候補地として、現在のジョグジャカルタではなくスラカルタより東に位置する中ジャワ州の内陸地域に置く可能性もあったという。しかし、マンクブミ皇子は戦略的要地として適しているとの理由から、現在のジョグジャカルタの地を選んだ。ジョグジャカルタは北にムラピ山、南は海に面するという地形に加え、市街地の東西にはそれぞれ3本の川が南北に流れ、軍事的に攻め込みにくい立地条件だったためだ。協定を結んだとはいえ、当時はまだスラカルタ王家やオランダ側には王家分裂を認めたくない勢力も多く、マンクブミ皇子は新王国をこれらから防御する必要に迫られたうえでの選択だったともみられる。

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