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そこに救いはない(太田りべか)

~『よりどりインドネシア』第173号(2024年9月8日発行)所収~

エカ・クルニアワン(Eka Kurniawan)の8年ぶりの新作小説が発売された。“Anjing Mengeong, Kucing Menggonggong”。ちょっとどう訳すのがいいか迷ってしまうタイトルである。猫が「吠える」のはいいとしても(漢字に「犬」の字が入っているし)、犬が「鳴く」とすると、あたりまえすぎる。「鳴く」に代わる、これは猫だとすぐにわかる言葉を思いつかないので、とりあえず『犬はミャオン、猫はワンワン』にしておこう。ちょっと間抜けな感じだけれど。

ちなみに、この物語の中に犬はなかなか重要な役割を帯びて登場するけれど、猫は一度も顔を出さない。

表紙のイラストがとてもいい。去年出たインタン・パラマディタの小説 “Malam Seribu Jahanam”(『千の業火の夜』)の表紙イラストも手がけたウラン・スヌ(Wulang Sunu)の手になるものだ。ジョグジャを拠点に活躍する人気イラストレーター・グラフィックデザイナーである。

“Anjing Mengeong, Kucing Menggonggong”
(https://www.gramedia.com/products/anjing-mengeong-kucing-menggonggong?queryID=364c699be3a89f98b79e222848fed0f0 より)

読み始めると、この人はやっぱり文章が上手いなあと唸ってしまう。無駄というものがない。読み進めるのがもったいない。133ページのそれほど長くない小説だが、これは一気に読んでしまうものではないと思う。一文一文舐めるように読むべきものだ。


「おれ」と「サト・レアン」

物語は一人称の「おれ」と、三人称の「サト・レアン」が入り乱れる形で進行する。どちらも同じ人物、この物語の主人公であり語り手である。

おれはモスクに行くのを止めた。礼拝するのも止めた。寝る前にももう祈りを唱えない。サト・レアンは左手でものを食っても気にもかけず、挨拶なしで家に入る。めんどくさければ、おれはバナナの木のそばで小便をして、あれも洗わない。

日本語はほぼ主語なしで書けてしまうので、あまり違いが出ないけれど、インドネシア語で読むと、ちょっと不思議な感じがする。でも違和感があるというのとは違うようだ。読者はおそらくほとんど迷うことなく、ここで、一人称で語られる人物と三人称で語られる人物が同じ人物であることを認識し、このちょっと不思議な語りについていくことになる。

自分の内部にぐっと入り込むと「おれ」の話になり、そこから引っこ抜かれてしまうと「サト・レアン」の話になる。裏表紙に刷られているあらすじにはそう書かれているけれど、なにやらもっと恣意的に「おれ」と「サト・レアン」が入り混じっているようにも思える。

リンゴを盗む代わりに、おれは結局リンゴとナシの箱に、腹から絞り出せるだけの小便をそっくりかけてやることにした。…(中略)…やつらはおれのことを、この十六歳のガキのことを知らないし、おれもやつらのことを知らないけれど、少なくともおれの持てるものをちょっぴり分け与えてやったわけだ。おかげでおれの人生にも少しばかりの希望が生まれた。少なくともおれも他の人間にちょっとは役に立つものを与えられたってことで。

正直言って、サト・レアンは、自分はたいしてこの世界の役になんて立たないと思うことがよくあった。父と母を喜ばせるためのありとあらゆる「ふり」を別にすれば、ということだが、父と母にしたって、この子が自分たちの自慢の種になりそうにないことには気づいていたのだ。少なくとも、サト・レアンは自分のことをそんなふうに見ていた。実のところ、自分のことを壁のペンキみたいなものだと感じていた。そこにあることはあるけど、だれもそんなものは気にもかけない。

最初に引用したのは、この物語の冒頭だ。これは「信心深い子」であることを全力で拒もうとする少年の物語である。

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