[2024/06/22] 往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第83信:理想の家族を求めて~予定調和で終わるハートウォーミングな家族ドラマ『マツの木の家族』~(轟英明)
~『よりどりインドネシア』第168号(2024年6月22日発行)所収~
横山裕一様
6月に入り日本ではしとしと雨の季節のはずでしたが、あまり雨が降らず梅雨入り宣言もないという、何ともはっきりしない天気が続いています。今年も7月から8月にかけて猛暑が予想されているようですが、幸い最近は暑くもなく寒くもない、非常に過ごしやすい毎日です。
さて、前回私が取り上げた幾つかの作品に横山さんからのコメントが入りましたので、まずは私からの再コメントを返しておきましょう。
横山さんは私が激推しした『2本の青い線』(Dua Garis Biru)を未見の一方で、『結婚生活の赤い点』(Noktah Merah Perkawinan、以下『赤い点』)の方は劇場公開時に鑑賞済み、ただし評価は私ほど高くないようで、その点は正直意外でした。期待外れとのことですが、横山さんは倦怠期夫婦の危機を描いた『赤い点』にどういう期待をされていたのでしょうか。あの終わり方に不満がおありなのか、とすれば不倫関係は「解消」されるのではなく「成就」されるべきであるという考えなのか、あるいはもっとドロドログチャグチャの所謂テレビドラマ(シネトロン)的な展開を望んでいたのか。または、私が切望していた「オトナの恋愛映画」という語句そのままの、激しい性描写も厭わない展開が見たかったのか。『赤い点』への評価が私と横山さんで異なるのは「趣向の違い」と述べられていますが、横山さんの「期待」が何だったのか全く説明されていません。
また、映画『赤い点』が1996年に77エピソードまで制作されたシネトロン版のリメイクであることは第79信でも述べた通りです。オリジナルのシネトロン版を私は未見ですが、ウィキペディアの記述に基づけば、映画版は基本設定を借り受けた程度で、ストーリーはほぼ別物に近い印象を受けます。シネトロン版のストーリーをここに書き出すことはしませんが、何というか、冗長極まりないペースと話の展開、さらに演技過剰も確実にありそうな、典型的なシネトロン作品のように思えてなりません。横山さんがこのシネトロン版を鑑賞済みであり良しとするのならば、なるほど映画版が期待外れという評価になるのも頷けますが、さて実際のところどうなのでしょうか。横山さんが『赤い点』に何を期待されていたのか、次回以降詳しく教えていただければ幸いです。
ところで、横山さんが言及された『魔の11分』(Critical Eleven)を私は未見です。後日鑑賞するつもりですが、所謂妊娠ものに分類可能な作品のようです。あらすじを確認した限りでは、やや予定調和的な話と言えなくもなく、そのせいか今まで食指が動いてきませんでした。海外を舞台にしたイケメンと美女の高学歴カップルの悩みにそもそも私は興味や関心が向かないせいかもしれません。
とは言え、妊娠ものであっても、前回私が激推しした『2本の青い線』(Dua Garis Biru)のようにリアリズム形式で結末が容易に読めない作品や、近作の『いつ妊娠するの?』(Kapan Hamil ?) のようなコメディだと俄然興味が沸きます。ただ、『いつ妊娠するの?』はインドネシアのAmazon Prime Video でしか見られないらしく、日本在住の私には今のところ鑑賞する手立てがありません。横山さんがインドネシアで鑑賞可能であれば、いずれ感想を教えていただければと思います。
もうひとつ、『グレン・フレッドリー ザ・ムービー』(Glenn Fredly The Movie)が全然観客を集められなかった要因について、グレンの歌がヒットした時期の世代と、映画観客層のボリュームゾーンを占める現在の若者世代との差を挙げられていますが、私も概ねその通りだと思います。ここ20年ほどのインドネシア社会の激変ぶりは凄まじく、一般的にポピュラー音楽の分野においても世代間にある種の断絶が生じている可能性はありそうです。無論、イワン・ファルスのように今なお老若男女から世代を超えて愛される歌手は存在しますが、これはイワンが例外的存在なのであって、グレンはそこまでの存在ではなかったということなのかもしれません。ともあれ、いずれは『グレン・フレッドリー ザ・ムービー』も日本で見られるだろうと期待しているので、彼の経歴と時代背景を踏まえつつ、同じような大物歌手の伝記もの『クリシェ』(Chrisye)と比較しながら鑑賞してみたいと思います。
さらにもうひとつ、前回横山さんが紹介された『ジャラナン』(Jalanan)について。どこでいつ見たのか記憶があやふやなのですが、確かに私はこの作品を見たことがあります。三人の主人公の中では、女性ストリートミュージシャンのティティのことを一番よく覚えており、なかなか面白いドキュメンタリー作品だったと記憶しています。6年に及ぶ長期密着取材が功を奏していることは間違いなく、社会から疎外され周縁化されている流しの音楽家たち一人一人にそれぞれの人生があることを観客に想起させる優れた作品と評価できます。
インドネシア映画には連綿と続く「下町人情もの」の系譜があるものの、ストリートチルドレンや路上で生計を立てる人々を本格的に主役に沿えた作品は、横山さんが言及された『枕の上の葉』(Daun di atas Bantal)や富裕な一家の子供と貧乏人の子供の友情を高らかに謳った『青空が僕の家』(Langitku Rumahku) くらいでしょうか。こうしたジャンルでの観客動員が難しいことはインドネシア映画興行の様子を日々観察していれば容易に気づけますが、まだ語られていない彼らの物語は無数にあるはずで、様々なアプローチができるように思えます。日本映画ですら、このジャンルでは様々なタイプの作品が撮られています。『ジャラナン』がカナダ出身のダニエル・ジブ監督によって撮られたことも含め、インドネシア映画人の奮起を期待したいところですね。
**********
さて、ここからようやく本題です。今回は前回の予告通り、『マツの木の家族』 (Keluarga Cemara、以下『マツ』)を取り上げたいと思います。ジャンルとしては家族ドラマなので、前回まで私が焦点を当ててきた「結婚もの」から若干脇道に逸れることになりますが、「結婚するまでのてんやわんや」から「家族の中でてんやわんや」へと物語の内容がシフトするのは流れとしては自然なことでもあります。インドネシア人の理想の結婚とはどのようなものであり、そしてその理想と思われた結婚から生まれた家族が今度はどのように理想の家族を作っていくのか、インドネシア人の自画像を探究するには最適のジャンルとも言えます。まずは作品紹介のアウトラインから説明していきましょう。参考文献は西芳実さんの『夢みるインドネシア映画の挑戦』です。
映画版『マツ』は1996年に始まったシネトロン版が元になっています。より正確を期せば、1970年代にアルスウェンド・アトゥモウィロト(Arswendo Atmowiloto)によって原作小説が書かれ、1981年に単行本として出版、1996年に原作者自らが立ち上げた制作会社によってシネトロン化、大人気となったため放映テレビ局が変わりながらも続編が作られ、最終的に2005年まで放映されました。原作・シネトロン・映画でそれぞれ人物設定の細かい差異があるものの、富裕な一家が没落し田舎へ引っ越しを余儀なくされるが、家族がそれぞれ互いを助け合って諸問題を解決していくという基本線は変わっていないようです。
ただし、だいぶ意地悪な見方をするならば、模範的な家族の形を礼賛奨励するイデオロギーが『マツ』という物語の背後に潜んでいると言えなくもありません。
西芳実さんは前掲書において、「父は愚痴をこぼさず微笑み、子は文句を言わずに父を助けるという親子関係が見られたスハルト時代のテレビドラマ版」は、映画版において「父に文句を言う子と弱音を吐く父を登場させることで、父は子を守り導くだけでなく子に支えられている姿」に変わっていると指摘しています。理想の父親像そして家族の在り方がスハルト政権退陣前と退陣後では微妙に変化したとの主張で、これにはいくつか異論がありますが、今回は深入りしません。ただ、インドネシアでは伝統的に家父長主義の権化のような強い父親像はフィクションにおいて例外的で、むしろ弱い父親像のほうが主流の描き方なのではないかと私は考えています。
アウトラインはこのくらいにして、次は映画版『マツ』のあらすじについて簡潔に述べてみましょう。
ジャカルタの広大な一軒家に家族4人で住むアバー(リンゴ・アグス・ラーマン)は建設現場の事務所長として多忙を極めているため、長女エウイス(アディスティ・ザラ)のダンス発表会を欠席します。おかんむりのエウイスに「誕生日パーティーには必ず出る」と約束したのですが、実は誕生日会が開かれていた頃、アバーの会社は資金繰りに行き詰まって現場労働者への支払いにも窮し、彼らから突き上げを食らっていました。はたして、エウイスの誕生日会が開かれているアバーの自宅にはたちまち借金取りたちが押し寄せ、あれよあれよという間に自宅を差し押さえてしまいます。呆然とする妻のエマック(ニリナ・ズビル)と次女のチェマラ(ウィドゥリ・プトゥリ・サソノ)。
ここから先は
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?