~『よりどりインドネシア』第171号(2024年8月8日発行)所収~
はじめまして。西野恵子と申します。インドネシア語翻訳をしたり、東京インドネシア学校で日本語教師をしたりしています。
ご縁あって、『よりどりインドネシア』で連載をもたせていただくことになりました。
これまで翻訳者として、日本語教師として、またインドネシア学校に息子を通わせる母として、東京近郊に暮らす様々なインドネシア人の方々と出会ってきました。みなさんとお話するたびに、一人ひとりにそれぞれの人生ドラマがあって、今、東京にいらっしゃるということに気づかされます。
大きなデータではなく、個人に焦点をあててじっくりとお話を聞くことで、何か気づきがあるのではないか。そんな思いを胸に、東京近郊に暮らすインドネシア人へのインタビューをお送りいたします。
第1回目のゲストは、ミヤ・ドゥイ・ロスティカさん(43歳)。現在は、大東文化大学で常勤講師をされています。中部ジャワ・ソロ出身のとてもパワフルな女性です。筆者とは、10年来の友人であり、同じ中学校に子どもを通わせるママ友でもあります。
手元に300円しかなく、お餅で空腹をしのぎながらも博士課程まで進んだというミヤさん。
「エリートの家庭に生まれたわけでもなく、経済的に恵まれていたわけでもない。学をつけて、自分を変えるしかなかった。失敗ばかりだったけれど、人との出会いに恵まれたおかげでここまで来れた、ということを伝えたい」とインタビューに協力してくれました。
なお、インタビューはすべて日本語で行いました。筆者が要約していますが、できるだけご本人の言葉をそのまま掲載します。
日本へ行くまで
お父さんの仕事の都合で、マグランにある「超ド田舎」(本人曰く)の小学校に通っていたミヤさん。子どもたちの多くは、靴も履いていなかったという。優秀な成績を収めて小学校を卒業し、ゴミ処理場近くにある中学校に進学。当時、勉強にはそこまで力を入れていなかった。
中学を卒業すると、友人は次々と高校に通いはじめるなか、ミヤさんだけ、なかなか進学先が決まらなかったという。
苦い経験を繰り返しながらもようやく高校生になったミヤさん。ここで彼女の運命は動き出す。
広島での高校留学
こうして16歳のミヤさんは、意図せず日本へ行くことになった。当時の日本語能力は、挨拶程度だったというから、それでも出発を決めた勇気に驚かされる。留学先は、広島県。ホームステイ先のお母さんが、ミヤさんの写真を見て「この子だ!」と選んだのだという。
県立高校に通いながら、舞踊も習い、充実した一年間を過ごしたそうだ。
早川先生、戸津先生との出会い
インドネシアに帰国すると、名門ガジャマダ大学のD3プログラム(注:3年制専門学校)で日本語を専攻する。ここで、早川先生というネイティブの先生と出会えたことが宝物だという。
当時、すでに日本語検定2級を取得していたミヤさん。その後の進路はさぞ順調なのでは、と想像するが、ここで待ち受けていたのは厳しい現実だった。
またも苦難に直面したが、ここで救世主が現れる。国士館大学から、ガジャマダの学生をスカウトに来ていた戸津先生と出会ったのだ。
再び日本へ、困窮の大学院時代
これを機に、国士舘大学の修士課程に進む目途がついた。ところが最初の一年間は、研究生となる。研究生の間は奨学金を得ることはできない。
ミヤさんの生活は、この一年目が一番大変だったそうだ。手元の残金が300円ということもあった。
経済的にここまで追いつめられても帰国という道を選ばなかったのは、家を担保に入れてまで自分を信じて応援してくれたお父さんのため。成功するまでは絶対に帰れないと思っていたそうだ。
修士課程の入試で良い成績を収めたミヤさんは、佐川急便から2年間、月10万円の奨学金を得られることになった。この奨学金は、当時日本全国にいた東南アジアの留学生の中から12名のみが選ばれるという、狭き門だった。
一番大変なときに助けてくれたのが、インドネシア人同士ではなく、別の国からの外国人だったというのは、少し意外だった。