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[2024/03/08] 天国の暗部と真夜中の1分前(太田りべか)

~『よりどりインドネシア』第161号(2024年3月8日発行)所収~

ふと目に留まった作家・AV監督の二村ヒトシ氏のコラムがおもしろかった。1985年にスティーブン・スピルバーグが手がけた『カラーパープル』をリメイクしたミュージカル映画についての話だ。ミュージカル版『カラーパープル』は2023年製作、監督はブリッツ・バザウーレ、主演ファンテイジア・バリーノ、製作総指揮にはスピルバーグも名を連ねている。

コラムの冒頭で「社会問題や過去におきた悲劇的な事実を題材にして、なにかを告発する重厚な映画が苦手です(体制側や特定の宗教を礼賛する映画も嫌いですが)」という二村氏は、このミュージカル映画について、「差別され、さらに虐待される立場に生まれたことの悲しみを訴える話だった『カラーパープル』が、ストーリーは変わってないのに、尊厳を奪おうとする支配に対して人間はどういう態度を示せばいいのかを考えさせる新しいドラマに再生しました」と書いている。

二村氏がここで語るのは「人間関係において大切にされていない側の怒りのこと」であり、「親子でも夫婦でも恋人でも、精神支配から抜けたあとに、弱かった側の人は自分をコントロールしていた者をちゃんと憎み、呪うことが必要です。それが自己の尊厳と安定の回復につながる」ということだ。

しっかり心のなかで決別できてないまま相手を呪うと、そいつのことを愛していた(あるいは「人生とはこういうものだ」と思いこまされ、感情をうばわれ抵抗をせずにいた)がゆえに支配されてた「過去の自分」まで、愚かだったと自虐したり、自己嫌悪してしまう。それが自分自身にもむけられた呪いになります。それだといつまでたっても自尊心が回復しないのです。

呪術というものは、自分には返ってこないように練る必要があります。相手を憎むことが、同時に過去の自分に対してのいたわりと癒しになり、未来の自分への祝福と推進力になるような呪いかたが、できると思うんですよ。

「コントロールと加害から脱出した人間はどう生きていくのか? 
ひどい恋愛の終わりにも参考になる『カラーパープル』」
【二村ヒトシコラム】2024年2月18日より

二村氏がこの映画の中で感じた呪いがどういうものなのかというと、「『わたしたちはこれから、お前の支配から抜けて自尊心を取りもどし、自分の力で生きていく。人を支配しなければ生きていけないお前は、そのまま進歩なく、なにも変わらず、そこにいてそのまま腐っていけ。わたしは先に進む』という、明るく楽しい呪い」だという。

今回は、そういう「大切にされていない側の怒り」や「自分をコントロールしていた者をちゃんと憎み、呪うこと」についてちょっと考えさせられた1冊を紹介したい。ブリアン・クリスナ(Brian Khrisna)の “Sisi Tergelap Surga”(『天国のいちばん暗いところ』)だ。

“Sisi Tergelap Surga”

天国の暗部

“Sisi Tergelap Surga”は、華やかな大都会ジャカルタの一隅の集落で生きる人々の物語だ。日本でも近年「格差」が問題になっているようだが、それとはおそらく比べものにならないほど大きな格差が、インドネシアにはいたるところにある。けれどもこの物語では、格差や富裕層とそうでない人たちとの対比に焦点を当てて描くのではなく、ある集落の中のギリギリの暮らしをしている人たちどうしのいがみ合いや支え合いを描いていく。

ずいぶんたくさんの人たちが登場する。バス・ターミナルを牛耳り、皆から恐れられているごろつきの親玉、未婚の母となって、カラオケ店で売春を含めたサービスをしながら子育てをする女、実は女装の男娼だが、それを知られて集落から追い出されることを恐れて、ひた隠しにしている美形の男、見境のない色魔で汚職まみれの町長、豆腐を売って細々と生計を立てながら、病気で幼子を亡くしてしまったことを悔み続ける夫婦、モールで清掃員の仕事をしながら家族に仕送りをする苦しい生活の中で、詐欺まがいの商売に誘われて心揺れる青年、どこからともなく流れてきて夜警ポストや礼拝所で寝起きし、助け合いながら共同生活をしている3人の少年、鶏の着ぐるみを着て物乞いをすることで3人の娘たちを育てる男と、どんな苦境にも負けないたくましく賢いその娘たち、バイク泥棒をしながら病気で寝たきりの母を養い、それでも鶏おじさんの3人の娘たちに対する気遣いは欠かさず、いつも差し入れをして援助する若者。他にもまだ何人も登場する。

著者自身、長年にわたって路上で物売りをする生活を経験し、その中で見聞きしたこと、自身の体験、そしてそこで知り合った人々が話してくれたことが、この物語のさまざまなエピソードになったという。

身につまされるようなそれぞれのエピソードは、大都会の隅で生きる人々の日々を描き出していく。貧しい中にも美しかったりたくましかったりする話もあるけれど、決して美化はされない。日々生きていくだけで疲れ切っているし、嫌がらせや罵詈雑言を吐いたり、平気で暴力をふるったりもするし、偏見にも満ちている。卑怯で臆病でもある。町長が脅迫まがいの理由をつけて集落の若い女性リニを町役場に呼び出し、執務室であからさまに強姦していても、職員たちは見てみぬふりをする。町長の権力を恐れているせいでもあるが、リニが売春を日々の仕事にしているからでもあるだろう。

リニだけでなく、集落の女性の多くは「人間関係において大切にされていない側」だ。リニの友人のレスティは、大学を出て会社に就職し、余裕のある独身暮らしを楽しんでいたが、親や周りからの圧力に負けて集落の男と結婚、夫や周りからの圧力で仕事も辞めざるをえなくなった。夫は穏やかな人で声を荒げたりすることもないけれど、とにかく働こうとしない。日がな一日家の前に座ってポケモンゲームをしながら、どこかから幸運がやってくるのをただ待っている。この男にとっての幸運とは、ポケモンゲームに飽きたどこかのお金持ちが連絡してきて、金を払うから自分の替え玉になってゲームを続行してくれと依頼してくる、というようなことだったりする。

ふたりの間に生まれた子は栄養不足で病気がちだが、病院に連れていくこともできない。業を煮やしたレスティが、自分が働きに出れば最低賃金は堅いと言っても、夫はやんわりと、妻は家にいて子どもと義理の両親の面倒をみて家事をするもので、働きに出たりするのは体裁が悪いとレスティを諭す。金銭的なことを理由に夫に避妊を求めても、夫は夫婦の間で避妊するなんて不自然だ、子は神様からの授かりものだし、福を連れてくるものなのだから、という理屈で避妊をしようともせず、貧困の中でレスティは2人目を妊娠してしまう。

絶望と不安と、母体が栄養不足のせいで生まれてくる子になにか普通でないところがあるのではないかという恐れの中でレスティは出産するが、生まれてきたのは完全に健康な赤ん坊だった。それを見てレスティは、天使が耳元でこう囁いているように思った。「いくつか試練を与えられただけで、畏れ多くも神を責めようというのか? 神がそなたの生のためになされることを見よ。神の恵みのいずれをそなたは偽りだと言おうとするのか、レスティ?」

レスティは神の存在を確信し、生きる勇気を取り戻し、この先どんな困難が待ち受けていようと恐れず進もうと決意を新たにするのであった・・・。そしてレスティに関するエピソードは、こういう一文で締め括られる。「たぶんレスティはこれまで求めてきたものを見つけられなかったかもしれないが、最後にはむしろikhlasという言葉の意味を見つけたのだった」

このiklasというのは、どう訳せばいいかちょっと迷ってしまう言葉だ。諦観とか、そういう運命なのだと思って諦めるとか、運命に身を委ねるとか、少しばかり否定的ニュアンスを持たせて訳したいという誘惑につい駆られてしまうけれど、ほんとうは清く真っ直ぐな心という意味で、そういう心でもって神に向き合い、差し出された運命を受け入れるという肯定的で高尚な状態を指すのだろう。

美しい結末ではある。でも、なんだかモヤモヤしてしまう。「それでいいのか、レスティ? 自分を支配してきた連中をちゃんと憎んで呪えよ!」とレスティの肩を揺さぶりたくなってしまう。もちろんレスティが決意を新たにしたのは、これからもこのままダメ夫についていこうと思ったからではなく、ダメ夫と理解のない義両親を捨てて子ども2人を連れて集落を出て仕事を見つけて新たな人生に踏み出す、とまでいかなくても、ダメ夫に頼るのは止めて、ダメ夫や義両親の非暴力支配を断ち切り、ダメ夫は家の前に好きなだけ座らせておいて自分が働きに出て、一家の生計の舵を握るようになることを決めたのだったかもしれない。そうだといいのだけれど、と思わずにはいられない。

レスティの話が長くなってしまったけれど、他の人々もそれぞれの道を辿って、皆が美しい結末とはいえないまでも、それなりの結末にたどり着く。たとえば、ごろつきの親玉のトミは、妻のデウィに対して愛情もかけらもなく、日々ひどい暴力をふるっていた。家の外では、最強のごろつきとして恐れられてはいても、正義感が強く勇敢で、集落の皆からも頼られ一目置かれる存在だったのに、デウィのことは性行為の相手としかみなさず、それでも子のできないデウィを石女呼ばわりして痛めつけていた。デウィはそれに耐えていたけれど、あるとき病院で検査を受けて、自分が妊娠できない体ではないことを知る。子ができない原因はトミにあったのだ。

そこでデウィはトミの弟になんとか頼み込んで、恐れをなす弟と関係を持ち、妊娠した。なにも知らないトミは狂喜乱舞である。生まれた子を目に入れても痛くないほどかわいがる。デウィに対してもうって変わって優しくなり、慈しみをもって接するようになった。トミがデウィに暴力をふるっていたのは、自分が「種なし」かもしれないという恐れの裏返しだった、というオチである。

これはデウィの作戦勝ちであり、したたかで大胆なデウィに拍手を送りたいところでもあるが、やっぱりどこかモヤモヤしてしまう。あまりにもトミが自分勝手で、そんな理由で暴力に晒されてきたデウィが浮かばれない気がするからだ。もちろんトミが自分勝手であってはいけない理由はどこにもない。自分勝手である方が、リアルでもあるし、そういう男が皆から恐れられながらも人望もあって、町内会長に選ばれるというのも納得のいく結末であることはある。さらに、もしも後日トミの死の床で、デウィが実はあの子はあなたの子ではないと打ち明け、トミがそれは知っていた、でもこれまで黙って自分の子ということにしてくれていたことに感謝している、とでも言うような展開にでもなれば、もうちょっと納得してもいいかもしれない。

そういうモヤモヤを残す結末もある一方、素直に喜びたい結末もある。鶏の着ぐるみを着て物乞いをしながら娘たちを育てた男と、その娘たちのその後だ。生理用ナプキンすら満足に買えないような暮らしの中でも、力を合わせて踏ん張って生きてきた3人娘は、それぞれ華々しい未来を手にすることができた。三女のイナは靴下のネット販売をして学費を稼ぎながら大学に通っている(姉たちが生理用ナプキンの代わりに使ったのも靴下だった)。次女のエルリンは大学を卒業し、国営企業に就職した。集落に帰ってくるたびに、かつての自分たちのように生活の苦しい子どもたちのために無料の学び場を開いている。長女のラティは、この集落で外国へ行った初めての人間となった。東京のIT企業に就職したのだ。3人はほとんど小屋同然だった父の家を二階建ての立派な家に建て直し、エアコンもつけた。鶏おじさんは、今はそこで穏やかに老いを養っている。鶏の着ぐるみは、古い戸棚に今も大切にしまってある。

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