[2024/08/08] スラウェシ市民通信(11):自分の体に剣を突き刺す~ブギスの祭司ビッスの物語~(2007年12月翻訳)(アスフリヤント/松井和久訳)
~『よりどりインドネシア』第171号(2024年8月8日発行)所収~
剣を腹部に突き刺して倒れる
その夜、ビッス(bissu)と呼ばれるブギスの祭司によって執り行われるマビッス(mabbissu)の儀礼の最中に、突然、プアン・マトア・ビッス・サイディ(以下「プアン・サイディ」)の表情がこわばり、汗が吹き出した。歯をむき出しにしたまま、左手で家の中央の柱をつかもうとする。右手は剣の先を握ったままで、その剣先はこのビッスの腹部に突き刺さっている。別のビッスはそれに驚いた様子。プアン・サイディは剣を体に突き刺さしたまま体の向きを変え、祭壇のある控え部屋へ入った。
かなり長い時間の後、プアン・サイディは控え部屋から出てきた。剣はまだ体に刺さったままだ。彼が半ば強制的に剣を体から抜くと、流れ出た赤い液体がビッスの金色の衣装を濡らした。おおよそ7センチにわたる血の跡は剣の先に溜まり、それを彼がペロリと舐めた。「こうした出来事はプアン・サイディにはよくあることなんだ。マビッスの儀礼を行う条件が整わなかった場合にはね」と、ビッスについて関心の高いNGO活動家のアムルラーは語る。
マビッスの最低条件が満たせない
この事件が起こる2時間前、パンケップ(訳注1)の中央市場から遠くない家の上では、白い衣装を着けたプアン・サイディが、儀礼で使う道具やその夜に執り行う儀礼の式次第を忙しそうに確認していた。
彼の有名メーカー製の携帯電話が頻繁に鳴る。聞こえてくる話し声からすると、彼はちょっと怒っているようだった。それどころか、電話の相手であるビッスに対してすぐ来るように強制していた。まもなく始まる儀礼にあたって、ビッスの人数という最低条件を満たすために、電話を受けたビッスは馳せ参じる必要があったのだ。
一方、17歳になったばかりの最年少のビッスであるムハッラムは、部屋の隅で恐縮した様子だった。彼は頭に被り物をするのを忘れ、まだ女性の衣装のままだった。三色のモチ米で筋をつけるときに指が震えた。モチ米の筋をつけるのを間違えるたびに、プアン・サイディが何度もムハッラムの手を叩いた。同じく部屋のなかにいた最年長のビッスであるマッセも緊張しているように見えた。彼は窓の外を覗いては、さっきから待っている一人のビッスがすぐに駆けつけて、プアン・サイディの怒りを鎮めてくれることを願っていた。しかし、待てど暮らせどそのビッスは現われなかった。結局、その夜、すでに約束済みであるマビッスの儀礼は、最低限の条件を満たすことなく、執り行われたのであった。
マビッスの儀礼が始まる
いつもと違って、彼らは重い表情で我々の面前に現われた。彼らに起こった事情など全く知らない我々は、ゆったりと心地よく座って儀礼を眺めていた。
最初の15分間、金色の衣装と長い剣をつけたプアン・サイディと3人のビッスは、部屋の中央でまわりながら儀礼を執り行っていた。聖なる儀礼を司るなかでビッスの人々しか理解できない一種の古いブギス語であるト・リランギ(To Rilangi)語を使った神秘的なマントラのフレーズが、グンダン(gendang)と呼ばれる太鼓の響きとともに流れていく。グンダンの響きがさらに速く激しくなると、ビッスの動きは逆に次第に遅くなる。明らかに、ビッスたちがトランス状態に入ったことがわかる。
若いビッスのムハッラムが続いて最初のマッギリ(maggiri)の動きを始めた。腰につけた長い剣を抜き、ゆっくりとグンダンのリズムに従う。その剣を手の甲に当てた。何度も強く押しつけるが、その剣は手の甲を傷つけはしない。それどころか、ムハッラムが部屋の中央で転がり、続いてプアン・サイディがムハッラムの喉に剣を突き刺すが、彼の喉の皮膚は少しも傷つかない。プアン・サイディがムハッラムの喉に剣を突き刺す強さは、家の支柱に響く音で分かる。そのときは身震いがした。日頃は女性的なビッスたちがその夜は突然に力強さを見せた。日常生活では物腰が柔らかでなよなよしているという話と違っていた。
年配のビッスのみが執り行う儀礼
部屋の中央では、マビッスの儀礼がますます荒々しくなった。次に、若いビッスたちが部屋の隅に引いて、線香が消えないように見守り始めた。線香から出るチェンダナ(白檀)の香りが強くなるなかで、プアン・サイディは次の儀礼に移った。「この儀礼は年配のビッスしか執り行わない。若い者が執り行うことは許可されないのだ」とNGO活動家のアムルラーが説明する。
プアン・サイディとともに、マッセも一緒にグルグルと回った。プアン・サイディは力強く見えた。鞘から抜いた剣の刃が上を向くように、家の床に剣を置いた。そして、マッセがそこに自分の体を落とす。剣を支える木片が音を立てて砕ける。彼はこの動きを何度も繰り返す。実際、何度かは相当に激しく体を落としたのだ。
興奮はさらに高まる。プアン・サイディが自分の喉に剣を刺したのだ。剣先を家の柱に向けたかと思うと、その剣を自分の喉に何度も突き刺した。グンダンの響きはどんどん強くなる。朦朧としたプアン・サイディは、今度は自分の腹部を長い剣で刺した。彼は床に転げ落ち、剣を支える竹が折れた。プアン・サイディはますます荒々しくなった。しかし、彼が立ち上がって腹部に剣を突き刺したとき、彼は目を大きく見開いた。部屋の隅にいたマッセとムハッラムはプアン・サイディの表情をうかがった。プアン・サイディはよろめき、ふらふらと控え部屋のなかに入っていった。グンダンの響きが止まった。観衆の我々は満足の笑みを浮かべて拍手を送った。しかし、プアン・サイディは控え部屋から戻り、腹部に刺さったままの剣先をつかんだまま、血だらけの指で何度も腹部を拭いた。そうだったのだ。プアン・サイディの腹部が流血している。血が流れ出しているのだ。
南スラウェシのビッス集団
この事件が起こる一週間前、我々はパンケップ県でビッスとその伝統について小さな調査を行った。この地域を対象にしたのは、南スラウェシのなかでもかなり影響力のあるビッス集団が存在しているからである。
パンケップのビッス集団はデワタ・ビッス集団(kelompok Bissu Dewata)と呼ばれ、重要な宗教的儀礼を司るヒエラルキーの高いビッス集団なのである。このほかのビッス集団はソッペン(Soppeng)、ワジョ(Wajo)、ボネ(Bone)の各県に存在する。ソッペンのビッス集団はビッス・パットゥダン(Bissu Pattudang)、ワジョのはビッス・パッドゥパ(Bissu Paddupa)、ボネのはビッス・マッパカセンゲン(Bissu Mappakasengeng)の名で知られる。これらすべてのビッス集団の頂点に立つ指導者が「プアン・マトア」の称号を持ち、現在は、パンケップ県セゲリ地区にあるデワタ・ビッス集団のプアン・マトア・サイディがその地位にある。
考古学的な観点からみても、過去の南スラウェシにおける王国の構造のなかで、ビッス集団が非常に重要な役割を持っていたことが確認できる。ブルクンバ(Bulukumba)、シデンレン(Sidenreng)、バンタエン(Bantaeng)、ルウ(Luwu)など、ビッスやその伝統が認知されていない地域にも、ビッスの墓や井戸の跡がみられる。これらの地域でビッスが知られていない背景には、1950年代後半に地方反乱を起こしたダルル・イスラーム運動(訳注2)によって、ビッスが迫害されたことがある。
たとえ迫害されたとはいえ、偽名を使って逃げ延びた老ビッスたちは、ひそかにビッスとしての活動を続け、ビッス集団の組織構築を図っていった。たとえば、プアン・サイディは家から追い出され、パンケップ、ソッペン、ボネと居場所を転々とする経験をした。
彼がビッスになったのは25歳のときで、1974年であった。彼は、生き残ったプアン・マトアである故サンロ・サイディに師事した。これまでの人生で、彼は、とある機関による「懺悔の手術」(operasi tobat)という名の「社会病」撲滅手術を経験した(訳注3)。しかし、彼はこの事件から何とか逃れることができた。
ビッスは、その生地である南スラウェシの人々自身から忘れ去られ始めている。しかし、19世紀のマッテス(Mathes)、現代のペルラス(Pelras)、アンダヤ(Andaya)、ハモニック(Gilbert Hamonic)など数多くの外国人研究者の調査研究成果によって、ビッスは再び知られるようになった。
彼らが興味を示したのは、ビッスがラ・ガリゴ(La Galigo)(訳注4)の教えを起源とする古いブギス人の宗教の痕跡を持っているからである。そのため、現在に至るまで、たとえばプアン・サイディのようなビッスは、ト・リランギ語(神のための聖なるブギス語)、ラ・ガリゴ語(古ブギス語)、現在使われているブギス語、の最低でも三種類のブギス語を知っているのである。
面白いことに、多くの研究者が、イスラーム教が知られるずっと前の古いブギス人の宗教の継承とビッスをみなしているにもかかわらず、マビッスの儀礼を多神教の一部と言われたならば、プアン・サイディはものすごい剣幕で怒る。それどころか、鏡の持つ意味を説明する際、イスラームの神秘主義者(スーフィー)たちが用いる「預言者ムハンマドが神の啓示を受けた光」と同じだというのである。「これは南スラウェシの祖先からの教えとイスラーム教との融合である。同時に、イスラーム教が初めて伝えられたときに慣習法の一部となり、慣習法と宗教とが渾然一体となってシンボライズされ、南スラウェシの文化の一部になっていた」と、ビッス研究で知られるハリリンタル・ラティフ教授は説明する。
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