[2024/08/23] ウォノソボライフ(77):不遇の英雄、テ・シンニオ ~男装の戦士~(神道有子)
~『よりどりインドネシア』第172号(2024年8月23日発行)所収~
今年は8月17日の独立記念日が週末に重なり、パレードやイベントが各地で華やかに行われました。ひと月ほど前から各家庭で掲揚されている紅白旗、商店を彩る紅白の飾りや電飾、賑やかな楽隊に様々な競技のための道具・・・。例年通り、独立を祝う雰囲気に満ちています。
さて、独立記念日が近づくと各種メディアでも戦争や独立、そして独立に貢献した英雄たちに関する話題が増えます。そのなかで、これまであまり取り上げられてこなかったとある女性を扱った番組や記事をいくつか目にしました。そこで、今回はちょっと予定変更して、この女性、テ・シンニオとそれにまつわる最近の動きを追ってみたいと思います。
男装して戦場へ
兵士として男性を差し出すように命令された家の娘が、老いた父を守るために男装して出兵する・・・というストーリーの、古代中国を舞台にしたディズニーアニメ『ムーラン』をご存知でしょうか。女性でありながら男の世界であった戦場に身を投じる勇ましさ、健気さを描いたものですが、この数年で『インドネシアのムーラン』と評されているのがテ・シンニオ(The Sin Nio)です。
1915年12月20日、ウォノソボに生まれたシンニオは、名前からわかる通り、中国の血を引くプラナカンです。彼女は女性でありながら、第二次世界大戦中にインドネシア独立のために兵士として前線に立つという経験をしました。
第十八連隊の第四大隊は第一中隊に所属していたと記録されていますが、最初は兵士のための炊き出しをする兵站要員としての関わりから始まったようです。元から血気盛んな性格だったのか、何かの要請があったのか、理由は定かではありませんが、そこから武器を持って実戦に参加するようになります。ナタや竹槍といった手軽なものを使っていましたが、ある時、敵のオランダ兵からライフルを奪い、以降はそれを持って戦場に立っていたというのですから、肝が据わった人物であったことは確かなようです。
彼女の逸話で最もインパクトがあるのは、男性のふりをしていたという部分です。ただ軍服をまとっていたというだけではなく、髪を短く刈り、胸に布を巻いて潰し、男性の見た目となるようにしていました。また、名前もジャワ男性のように変え、本名のテ・シンニオではなくモハマド・ムクシン(Moehammad Moeksin)を名乗っていました。シンニオがどういう漢字なのかはわかりませんが、ニオというのは女性を表す意味なのだそうです(女?娘?)。名前から女性であるとバレてしまうため、男性、それも華人男性ではなくムスリムジャワ人風の名前にしました。あえてジャワ人を装ったのは、華人は敵のスパイだと看做されることがままあったためです。行く先々であらぬ疑いをかけられないように、ジャワ人でいることが一番都合がよかったのでしょう。インドネシアで華人がインドネシア風の名前をつける場合、リアン(Liang)→リアナ(Liana)といったように、本名に似た音の名前に寄せる傾向があります。そのため、シンニオのシンの音を残してムクシンとしたのではないか、と後にシンニオの孫が語っています。
こうしてシンニオことムクシンはゲリラとして戦場を駆け回りました。一度は部隊が敵に押されてスマランあたりまで後退したこともあったそうで、かなり広範囲で活動していたことがわかります。その後には看護婦として再び後方支援に回り、独立戦争を生き延びました。戦後には女性として2度の結婚をし、計6人の子をもうけます。ただし2回とも離婚をしており、晩年は独身となっていました。
報われなかった功績
戦後は長らくウォノソボで暮らしていましたが、長子のところに最初の孫が生まれた翌年の1973年、シンニオはひとり、ジャカルタへと移りました。子供ら家族はウォノソボに残したままです。シンニオは、退役軍人として正式に認めてもらいに行ったのです。
独立のために命を賭して戦った退役軍人。それは紛れもない事実であったはずなのに、なんと国はそれを認める書類を出しませんでした。
この点について、中華プラナカン図書博物館(Museum Pustaka Peranakan Tionghoa)を設立したアズミ・アブバカルは「彼女が華人で、かつ女性という社会的弱者であったからだ」と見ています。
シンニオがジャカルタに移った1970年代~1980年代は、華人系の国民に対する風当たりが強かった時代です。アズミは、ただの憶測ではなく、中華プラナカン図書博物館には当時のそうした書類がたくさん残されていると言います。華人たちは、軍属であったことどころか、インドネシア国籍であることもなかなか認めてもらえない状態にありました。シンニオの孫の時代でさえ、SBKRI(Surat Bukti Kewarganegaraan Republik Indonesia インドネシア国籍証明書)を発行してもらうのに申請から数年かかるような有様。当時のシンニオがいかに困難な状況であったのか、想像がつきます。
シンニオは、退役軍人の証明を待つ間、ジュアンダ駅近くのレール脇にある小屋に住んでいました。彼女の孫が回想したところによると、中は6平米ほどの空間にマットレスと台所がある簡素なつくりで、電車が通ると建物自体が強く振動していたといいます。孫たちが遊びに行って泊まるとシンニオの寝場所はなく、彼女は隣人の家で寝起きしていたとか。慎ましい、というよりも生きていくのにギリギリの暮らしぶりでした。それでも、彼女はウォノソボの家族たちのもとに戻る選択はしませんでした。子供たちの手を煩わせたくない、と言っていたそうです。
待てど暮らせど発行されなかった退役軍人証明ですが、あるとき、当時のスハルト大統領夫人であるティン夫人と会う機会がありました。現状を訴えるとティン夫人はニコニコと応じ、書類の発行を約束したそうです。その4ヵ月後、証明書が発行されました。1976年のことでした。
しかし、朗報のはずの証明書ですが、本当にただの紙でしかないのだとすぐに思い知らされます。独立に携わった退役軍人であると認められたのに、軍人恩給は1ルピアも支払われません。相変わらずレール脇の小屋で寝起きする日々です。
シンニオはウォノソボに戻ることなく1985年に70歳で亡くなります。亡くなる何年か前からやっと恩給が支給されるようにはなっており、月々28,000ルピアもらえていました。現在では28,000ルピアはナシゴレン一杯食べたら終わってしまう金額ですが、当時は大金だったのでしょうか?
80年代に作られた童謡に、『バッソ売りのお兄さん』(Abang Tukang Bakso)というものがあります。そのなかの歌詞に、「バッソ一杯たったの200(ルピア)硬貨」というフレーズが出てきます。移動屋台などで食べるバッソが200ルピアほどであったとすれば、一食そのくらいか、節約するならもう少し抑えることが可能でしょう。一食200ルピアの場合は月に食費だけで約18,000ルピア。電気水道があったのか、払っていたのか、払っていたとしていくらぐらいか、家賃は・・・などは全くわかりませんが、ひと月28,000とはなんとか食べてはいける金額、といったところでしょうか。しかし、シンニオはそれを全て使うことはせず、故郷の子供たちに送っていたそうです。自身はやはり、レール脇の小屋で亡くなるまで暮らしました。死後はジャカルタのラユール・ラワマングン墓地(Layur Rawamangun)に埋葬されたといわれていますが、プラナカン図書博物館のアズミが確認しに行ったところ、もうどれがシンニオの墓なのかわからなくなっていたそうです。
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