[2024/08/23] いんどねしあ風土記(56):大衆のソウルフレーバー、クレテック物語~中ジャワ州クドゥス~(横山裕一)
~『よりどりインドネシア』第172号(2024年8月23日発行)所収~
健康面から世界的に禁煙の潮流が広がるなか、インドネシアでは依然、喫煙率は高く、世界トップレベルだ。保健省が実施した2023年の調査によると、インドネシア国民の喫煙者は減少傾向にはあるが7,000万人を超えているという。こうした背景には、インドネシアで生まれた独自の味、香りを持つクレテック・タバコ(丁子入りタバコ)の存在が大きい。多くの人々がアルコール飲料を飲まない習慣だけに、コーヒーやお茶などとともにクレテック・タバコは日常の、また一日の終わりの夜長をくつろぐアイテムでもある。人々の生活に浸透し、大衆文化のひとつだともいえるクレテック・タバコの物語。
インドネシア独自のタバコ、クレテック
1990年代末、初めてスカルノハッタ空港に降り立った際、ターミナルビル内に独特な甘い香りが立ち込めていた。当時、空港内はどこでも喫煙可能で、クレテック・タバコの香りだった。以降、このクレテックの匂いがインドネシアをイメージさせる香りとして強烈に記憶された。
「クレテック・タバコ」(Rokok Kretek)とは香辛料の丁子エキスが加えられたタバコのことで、吸うごとに「パチパチ」と弾ける音がすることから、その擬音を模して「クレテック」と名付けられている。現在ではクレテックというだけでクレテック・タバコのことを指すほど一般に浸透しているように、インドネシア人喫煙者の大多数がクレテックを愛用している。これに対し、通常のタバコは「白タバコ」(Rokok Putih)と呼ばれているが、クレテックを吸う人々は香辛料の甘い香りに魅了され、「丁子が入っていないと味気ない」とクレテックを手放さない。
クレテックの原料である丁子こそが大航海時代、当時のインドネシア東部でしか穫れなかったために西欧諸国が香辛料として、また薬品などの貴重な原料として競って奪い合った歴史を持ち、約350年間のオランダ植民地を経て独立から現在に至るインドネシアの歴史を方向づけた大きな要因のひとつでもある。
クレテックの歴史文化をまとめた『クレテック・ジャワ クロスカルチャーの生活スタイル』(Kretek Jawa Gaya Hidup Lintas Budaya, Rudy Badil著)に、興味深い逸話が紹介されている。インドネシア独立まもない1940年代末、外務大臣も歴任したアグス・サリムがロンドンでの外交官パーティー会場でクレテックを喫煙した。するとヨーロッパの外交官たちがその良い香りに驚いて、「何を吸っているのか」と尋ねた。そこでアグス・サリムはこう答えたという。
「これこそが、あなた方の英雄が(かつて)世界を征服した理由ですよ」
やんわりとした表現ではあるが、かつての被植民地から植民地支配国への皮肉が効いた返答だった。改めて丁子の香りに魅せられた西欧諸国の外交官に対して、現在は対等な国家同士だという誇りも込められていたかもしれない。以降、クレテックは外交活動の土産物として、他のどんな物よりも西欧諸国の外交官に喜ばれたという。
インドネシアでのタバコの歴史は8世紀にタバコの存在を窺わせるような記述が残されているが、一般には1600年頃にポルトガル人がタバコを吸う習慣を伝えたとされている。そして、タバコ葉に丁子を加えるクレテックの発明は発祥地を含め諸説あるが、一般には1800年代後半、中ジャワ州クドゥスで考案されたといわれている。
当地の口承によると、1870年から80年頃、ジャムハリ(あるいはジャマリ)という男性が胸に息苦しさを感じたことから、丁子を絞ったオイルを胸に塗ったところ症状が軽くなったという。さらに丁子を噛んでみると症状はより改善した。このためジャムハリはタバコに丁子を刻んだものを混ぜて自ら吸うとともに、薬用タバコとして販売を始めた。当時作られたタバコはトウモロコシを覆う薄皮で巻くクロボットと呼ばれる形態で、ラッパのように吸い口から火をつける先端にかけて徐々に太くなっていく円錐形をしていた。
ジャムハリの薬用タバコがたちまち周囲に広がって評判を呼び、住民の中にはジャムハリのクレテックを似せて作り、販売し始める者もいたという。こうしてクドゥスでクレテックが考案され、製造も普及し発展していった、というのが成り立ちだとされている。
インドネシアのタバコの歴史にはもう一つ、興味深い伝説がある。17世紀前半、クドゥスの東隣にある街パティに住んでいたロロ・ムンドゥット(Roro Mendut /Rara Mendut)の伝説だ。美貌の持ち主だったロロ・ムンドゥットがその容姿以上に注目を集めたのが、タバコの販売方法だった。彼女はトウモロコシの薄皮で巻いたタバコ以外に、彼女が途中まで吸いかけたタバコも販売した。この吸い口に付着した彼女の唾液が甘く、芳しい香りがすると評判が広がり、彼女のタバコ屋台は人だかりが絶えなかったという。屋台では、彼女がタバコを吸う姿は前にかけられたベールの奥に窺うばかりで、タバコの甘く芳しい、妖艶な味を演出した。タバコは短いものほど唾液が多くついているとして高値がついたという。
この伝説で気にかかるのは、「甘く芳しい味と香り」で、クレテックの味や香りと表現が似ていることだ。ロロ・ムンドゥットのタバコの甘く芳しい味は、実は彼女の唾液は演出にすぎず、クレテックが使用されていたのではないかとまで思えてくる。しかし、ロロ・ムンドゥット伝説とクレテックを結びつける資料はなく、伝説の時代は彼女がマタラム王国・アグン王の時代(在位1613~1645年)の将軍から求婚された逸話があるように17世紀前半のもので、伝説は18世紀末に記述されたものだ。クドゥスでクレテック製造ブームが起きる19世紀末まで時間差が大きいことなどから、クレテックとは関係が無いようだ。それを裏付けるように、現在、ジャムハリのクレテック考案逸話があるクドゥスには大規模なタバコ工場が十数ヵ所あるのに対して、隣県の伝説の地、パティには1ヵ所しかない。逆に考えると、ジャムハリに端を発したとされるクレテックは、その後の爆発的な普及からみると、妖艶さはないもののロロ・ムンドゥット伝説の味と香りを現代に再現し、大衆を魅了した存在になり得たものだといえそうだ。
クレテック発祥の地とされるクドゥスは、中ジャワ州の州都スマランから車で約1時間半。かつてイスラム王国で栄えたドゥマックを過ぎクドゥスに近づくと、道先案内人であるかのように前を走るトラックの後面には「クレテックの街・クドゥス」と表記されていた。そして、タバコの葉をデザイン化した大きなモニュメントが現れ、クドゥスに到着したことを知らせてくれる。
クドゥスでのクレテック発展史
ジャムハリが考案したとされるクレテックが人気を呼び、普及するとともに、クドゥスでは家内制手工業のクレテック製造が一気に拡大していった。19世紀末から20世紀初頭にかけて、各通り沿いの家々ではこぞって手巻きのクレテック作りが行われていたため、街の通りはタバコ葉の香ばしい匂いが立ち込めていたほどだったといわれている。
こうしたなかタバコ業で頭角を表したのが、後に「クレテック王」とまで呼ばれたニティスミトだった。クドゥスには現在、クレテック発祥の地としてクレテック博物館があるが、ここでもニティスミトの銅像をはじめ彼の功績に関するものが多く展示されていて、クドゥスのクレテック産業の発展に彼の存在が欠かせなかったことがわかる。ニティスミトは当初、実業家としての成功を目指しながらも失敗を繰り返していたが、馬車業を営んでいた際に出会った女性、ナシラと結婚した後、大きく運命を変えていった。
ニティスミトの妻・ナシラも、前述のジャムハリ同様、最初にクレテックを考案した人物ではないかといわれている。ニティスミトとの結婚前、結婚後の二説あるが、ナシラは当時、馬車引きらが休憩する屋台を営んでいたという。当時の客らはキンマ(ビンロウの実と石灰、キンマの葉を口に含んで噛む嗜好品)を嗜むのが常であり、それに伴って吐き出される赤色のカスで屋台の床が汚されていた。困り果てたナシラはキンマに変わる嗜好品として、味の配合に工夫を加えたタバコを店頭に並べた。この工夫こそが丁子を加えたタバコ、クレテックだったのではないかといわれている。屋台で販売されたタバコが客に好評だったことを契機にニティスミトはタバコ事業に本格的に乗り出していった。
クレテック考案者について、地元のクドゥスではジャムハリ説が圧倒的に多く、街の南部にジャムハリの生家があったなどの噂もある。しかし、ジャムハリの場合、考案して評判になって以降、ナシラの夫、ニティスミトのようにタバコ業で成功したといった消息が一切ないのも不可解な事実である。ジャムハリとナシラの逸話には約十年の開きがあるが、どちらが事実なのか、あるいは別に真実があったのかはいまだ不明のままである。(参照:『よりどりインドネシア』第149号所収「クレテック娘」、第151号所収「クレテック発明者とクレテック王」いずれも太田りべか さん著)
ニティスミトの旧邸宅が現在もクドゥス中心部西側を流れるグリス川近くにある。現在も子孫が住んでいるという。ここでニティスミトは家内工場としてクレテック製造を始めたといわれている。また、すぐ近くにニティスミトの妻ナシラが屋台を開いていたのではないかとされる場所もあるが、現在はバティック(伝統ろうけつ染)店で、店主は過去について把握していないことなどから真偽は不明だ。バティック店内にはクレテック発祥の地らしく、タバコの葉と丁子をモチーフにしたバティックがあったのが印象的だった。
クレテック事業を進めたニティスミトが1908年に植民地政府に登録商標した、円形を3つ並べたパッケージロゴの銘柄「バル・ティガ」(Bal Tiga /3つの円)が大ヒットした。このためニティスミトは1918年、近郊6ヘクタールの敷地に「バル・ティガ」製造用の大工場を建設した。これはインドネシアにおいて、プリブミ(土着民族)による最初の大規模な近代工場だったといわれている。クレテック製造は手巻き作業のため、主に多くの女性が従業員として働いた。従業員はクドゥスにとどまらず周辺地域からも通ったという。1938年には従業員は1万人、クレテック製造は一日1,000万本にものぼったという。
ニティスミトは宣伝にも力を入れていて、飛行機を借りて広告チラシを散布して当時話題も呼んでいる。また、自社製品のパッケージを集めた消費者に対して、ブランドロゴの入った皿や茶器、タバコ用具などの景品も贈呈した。これらの功績から、ニティスミトは当時の植民地宗主国オランダ女王から「クレテック王」の称号を授かり、以後人々からも「クレテック王」と呼ばれるようになった。
「クレテック王」ニティスミトの事業成功に伴う、当時の繁栄ぶりを窺わせる痕跡が現在もクドゥスの街に残っている。彼が二人の娘のために建てた2軒の豪邸だ。彼の旧邸宅近くのグリス川を挟むように同じ形状の大きな家屋が現在も建っていて、地元住民からは「双子屋敷」とも呼ばれている。3階建てでバルコニーもある豪華な造りで、屋根の上には主力ブランドだった「バル・ティガ」の円を3つ並べたロゴマークが備え付けられている。まさにクレテック御殿に相応しい。
ニティスミトの成功に伴って、クドゥスではクレテック事業を起業する者が相次ぎ、特に中国渡来の華人が多かったという。1928年までにクドゥスでは大小合わせてクレテック製造会社が50社近くにのぼった。これはクドゥスにとどまらず、消費者の増大に伴って周辺都市のドゥマック、ジュパラ、ラスムをはじめ、チルボン、トゥガルなどジャワ島北海岸沿いに波及していった。さらに後を追うように東ジャワでもクディリやマラン、スラバヤなどを中心にクレテック産業が発展した。現在でも有力なクレテックメーカーであるグダン・ガラム(クディリ)、ブントゥル(マラン)、サンプルナ(スラバヤ)が各地を代表している。
しかし、1929年の世界大恐慌の余波を受けて、丁子など材料費高騰により小規模業者は淘汰されていき、中規模、大規模企業が生き残っていく。ニティスミトも大恐慌は乗り切ったが、1942年以降の日本軍政期に日本軍によって工場を接収されたため事業継続が途絶えてしまった。インドネシア独立後、事業を再開させたもののかつてのようには経営もうまくいかず、1953年、ニティスミトが死去(享年78歳)した2年後に子孫が引き継いだ会社も倒産する。ニティスミトがかつて建設した大工場も閉鎖され、現在、同地は住宅街に代わっていて、工場の名残を窺わせるものは無くなっている。クドゥスでは彼の功績を讃え、通り名にニティスミトの名前を残している。
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