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[2024/01/24] ウォノソボライフ(71):おばけの役割(神道有子)

~『よりどりインドネシア』第158号(2024年1月24日発行)所収~

もうずっと前の話ですが、私の住む村の水路で数人の人たちがたむろしていたことがありました。何をしているのかと思えば、子供を探していると。彼らは私たちの村よりも上の方にある村の住民だったのですが、そこの水路近くで子供が1人行方不明になった、もしや水路に落ちたのではないかと思い、下流に探しにきたというのです。

村を通る水路は一本で、皆手伝って探しましたが手掛かりは何も見つかりませんでした。上流の村の人たちは更に下流に行く人と別の場所へ探しに行く人に分かれ、それぞれ去って行きました。小さな村ですので、この件はすぐに噂になりました。皆、口々にこう言いました。

「その子はね、ウェウェ・ゴンベルに連れて行かれたんだよ」

「違う世界に連れて行かれるんだ。その子が自分で帰りたいと望まないと、帰って来られないんだよ」

ウェウェ・ゴンベル(Wewe gombel)とは、子供を攫うとされている妖怪です。

出典『Kisah Tanah Jawa jagat lelembut』

上記の本では、子供を痛めつける意図はなく、ただ子供好きで子守をしてしまうが、後で返すつもりではある、しかし、彼らの世界とこちらの世界は時間の流れが違うので、ほんの少し借りただけでもこちらでは何時間何日と経ってしまうのだ、といった説明がされています。

フィクション作品ではよく目にする名前ですが、本当に生活の中で出てくるものなのだなと、変に感心してしまったのを覚えています。

残念ながら、その子は4日後に遺体となって発見されました。私たちの村に入る少し手前で、水路は2つに別れているのですが、そちらの方に流されていたようです。しかしそちらは谷となっているため捜索は困難でした。日が経って臭いがするようになり、やっと場所がわかったのです。

事故の詳細も伝わってきました。夕方、お母さんが庭でその子にご飯をあげていて、全て食べ終わったので食器を家の中に置きに行き、再び庭に戻ったらもういなかった、ということでした。離れていたのは1分もなかったようです。そのとき、その母子以外に近辺には誰もいませんでした。家の前には雨で普段より増水した水路があります。まさかとは思いましたが、近隣の家などを探し回っても姿が一向に見えず、水路の捜索へ至ったということでした。

そうした経緯がわかるにつれて、ウェウェ・ゴンベルの名前は聞かれなくなっていきました。詳細がわかる前は、水路を探しているものの、誘拐なのか交通事故なのか、1人で森の中に遊びに行ってしまったのか、全く失踪の理由がわかりませんでした。理由がわからないけれど、何か奇妙なことが起こっている。それは地域住民にとっても不安な事柄です。そうした隙間がウェウェ・ゴンベルになったように見えました。

先日、その子の法事があったと聞き、当時のことを思い出しました。実はこうした妖怪、幽霊の話はたくさんあります。今回は生活の中でときどき顔を出すおばけたちに対する私なりの捉え方をまとめていきたいと思います。


死生観と名前のない幽霊

妖怪、幽霊、精霊・・・人間や動植物や昆虫ではない、けれど空気や火や水のように意思がないわけでもない、何か得体の知れない存在。姿はあるけれど目には見えない、精神的なモノたち、そうしたものをインドネシア語では“Makhluk gaib”、“Makhluk halus”と呼びます。どちらも、目に見えない存在、といった意味合いです。このMakhluk gaibはとても広い概念で、天使や悪魔といった宗教的な存在から、死んだ人の幽霊、それに自然に存在する土着の妖怪のようなものまで含んで使われています。通常、彼らは我々人間が住む世界とは違う世界に住んでおり、ときどき異界であるあちらとこちらが重なる、もしくは近くなって彼らと遭遇することになる、といったような説明がされます。

ここではイスラム教、次いでプロテスタント、カトリックのキリスト教が主な人々の属する宗教です。いずれも一神教であり、基本的には唯一絶対の神とその被造物である天使、精霊、悪魔といったもの以外の不思議な力を持った存在は存在しえないことになっています。また死者の魂も、死後は神のもとに召されてしまうので、その辺をいつまでもウロウロしてはいないはずです。ですが、そうした宗教的な理屈とは別に、妖怪、幽霊、また黒魔術といった不可思議な出来事が根強く信じられ語られています。宗教と、土着の神秘的な概念が共存していると言えるでしょう。

誰かが亡くなったとき、お悔やみの言葉として「神のもとに受け入れられますように」という定型文句があります。人は死ねばその魂は肉体を離れ、神のもとへ行く。そうして世界の終末が訪れるまでそのまま待ち、世界が終わった後には神の力により復活する。これが一神教での死と魂に対する考え方です。死後の、世界の終末の後にこそ本当の人生が始まるので、そこで良い扱いを受けられるように、今のうちから善行を積んでおこうというのが教えの根底にあります。

そのためか、『知人の幽霊』というのはほとんど聞きません。Aさんが悲惨な事故で亡くなったとして、その事故現場やAさんの自宅にAさんの幽霊が出る、というような事例です。何故ならAさんは神のところに行ったはずだからです。葬式に参加したりお悔やみの言葉を遺族に送ったりして、Aさんの魂は神によって救われたと互いに確認したからです。むしろ、あそこにAさんの幽霊が出るなどと言う話をするのは、Aさんが教義に反する罪深いことをしていたために神に見放されたのだと、故人を貶めるようなことになりかねません。そのため、具体的な特定の個人は幽霊になりにくいようです。

ところが、名前も顔も知らない赤の他人は幽霊になります。例えば、60年代70年代に行われた共産党狩りで、共産党と見做された人々が殺され遺体を捨てられたとされている場所があります。そこの周辺には、亡くなった人たちの幽霊が出ると言われています。また、墓場など、薄暗く死の気配をまとうような場所にもやはり幽霊が出ます。しかしそれは実際に埋葬されている特定の個人ではなく、誰だかわからない、けれど亡者の霊ということになります。

気味が悪い場所には幽霊か妖怪かよくわからないものが出ます。長く空き家になっている場所には『誰か』がいます。それはそこの昔の住人でもなく家の持ち主でもない、誰かです。空き家なのに物音がしたり人影があるように見えたり、それはとにかく人ならざるモノであり関わってはいけないモノです。

林道で一際大きな木、特に枝振りがちょうど人が座れるような形になっている木にはほぼ幽霊か妖怪の噂がつきまといます。実際に何かが座っているのを見たという人もいます。それはクンティラナック(Kuntilanak: 死亡した妊婦の妖怪)という具体的な妖怪であることもあれば、誰かわからないけれどとにかく幽霊だということもあります。

一応、イスラム教やキリスト教では、こうした幽霊や妖怪といった、神でも人間でもないものというのは、悪魔が化けているのだと解釈されています。悪魔というのは神が造った存在であるので実在し、しかし人間をたぶらかしその信仰心をへし折るという行動原理を持っているため、様々な幽霊やら妖怪やらの姿になって人間を脅し、あるいは人間とコミュニケーションを取り、破滅へ導くのだということです。この説明であれば、神以外に超自然的な力を持つ妖怪などは存在しないはず、けれど人々の目撃証言や体験談がある、という状況にも辻褄が合います。決して全ての人が妖怪=悪魔だという解釈でいるわけではありませんが、ともかく一神教と土着の妖怪たちが矛盾なく共存することがこれで可能になっているようです。

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