[2023/05/22] 往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第63信:「結婚大国」インドネシアの結婚コメディ最新作『母象』のステレオタイプを超えた面白さ(轟英明)
〜『よりどりインドネシア』第142号(2023年5月22日発行)所収〜
横山裕一様
日本では花粉症の季節がようやく終わりました。同時に新型コロナウイルス感染症も正式に5月8日から「5類感染症」になりました。横山さんが一時帰国された4月は街中でマスクをしている人の方が圧倒的多数だったはずですが、この原稿を書いている5月中旬現在、徐々にマスクを外している人が増えている印象です。「はあー、やれやれ」という嘆息がつい出てしまいます。このまま大きな混乱も揺り戻しもなく当たり前の日常が普通に続くことを願うばかりです。
ところで、すでに1ヵ月近く前の話題で恐縮ですが、インドネシアを離れて初めて迎えた今年のレバラン(断食明け大祭)は私にとって忘れがたいものになりました。ご存じのとおり、インドネシアでのレバランは各自が故郷へ帰省し、賑やかでお祝いの雰囲気があちこちで充満します。そして集団礼拝や互いの家族訪問の中で、ムスリムたちは互いの過ちを許しあいます。1ヵ月間の断食を終えた後におこなわれるこの行為は、文字通り心も身体も清らかにすることにほかならず、誰もが大いなる満足感を得られます。
しかしながら、ムスリムが圧倒的な少数派の日本で同じ体験をするのはなかなか難しいだろうと私は思い込んでいたのですが、あにはからんや、インドネシアにいた時と変わらない、充実したレバランの集団礼拝に参加することができました。
というのも、私が住んでいる千葉県流山市の隣の松戸市では、インドネシア人ムスリムの任意団体「ルームイチ」が昨年より活動を開始しており、私も日本人ムスリムとしてそこに参加することができたからです。「ルームイチ」はローマ字で書くと、RUUMUICHI (正式名称RUmah Umat MUslim Indonesia CHIba、千葉インドネシアムスリムの家)となります。市民センターの一室を借りての毎週金曜日の礼拝、月に1回の宗教勉強会、その他会員間での悩み相談や親睦会などが主な活動です。夫婦で参加している人や学齢期未満の子供連れも多数いるため、正確な会員人数はよくわからないのですが、子供を除いても100人を超える規模といったところです。
レバランでの集団礼拝には私も高校生の次女を連れて参加したのですが、市民センターの小ホールがほぼ満員になる程度の賑わいぶりで、子供の数が多いことにとにかく驚きました。赤ん坊も含めれば40人くらいはいたかと思います。走り回ることをやめない、ちびっこパワーに圧倒されまくりでした。また、会員の職業は技能実習生や留学生、介護士など様々ですが、介護士カップルが比較的多いのが「ルームイチ」の特徴のひとつかもしれません。
コロナ禍が過去のものになったことで、各国間での人の往来が当たり前になり、日本を目指すインドネシア人留学生や労働者はおそらく激増中のはずです。今後日本の各地で「ルームイチ」のようなインドネシア人コミュニティが自然発生するのでしょう。微力ながら、彼らの力になれればと思っています。
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長い前振りになり失礼しました。さて、今回は前回の続きからです。異民族結婚コメディのマレーシア映画『コンシー・ラヤ』の類似作品は、インドネシア映画にもあるのでしょうか?
結論から書きますと、皆無ではもちろんないものの、どこか腰が引けている印象の作品が多い、そんな気がしてなりません。
以前、この連載の第25信の「父子ロードムービー『三日月』に見る イスラーム信仰のあり方」(https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/24518/)、および第27信の「愛が宗教を超えるとき、超えないとき」(https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/24662/)で、私が徹底的に批判した『信じるものは』(Tanda Tanya)は、テーマとしては『コンシー・ラヤ』に近いものの、コメディ要素は皆無のシリアスな話でした。同じく第27信で論じた『チナ、チンタ』(Cin(T)a)もコメディどころかインドネシア映画では稀な神学ものでしたし、『愛すれど違う』(Cinta Tapi Beda)もリアリティ重視で気軽に笑える話とは言えないややシリアスな内容でした。
唯一、『三つの心、二つの世界、一つの愛』(3 Hati Dua Dunia, Satu Cinta、以下『三つの心』)は、ポスターが示すように、少し軽めのアプローチがなされている異種族異宗教結婚ものに分類されますが、結末はリアリティ重視でハッピーエンドではありませんでした。
『三つの心』は、どんな役でも演じられるオールラウンド男優のレザ・ラハディアンと、すでに論じたことのあるスポーツ伝記もの『スシ・スサンティ』(Susi Susanti: Love All)やベルリン映画祭受賞作『ナナ』(Before, Now and Then) で実力人気ともにトップ女優ローラ・バスキの主演作です。レザがアフロヘアーのブタウィ人ムスリムを、ローラが富裕なクリスチャンを演じているのですが、ローラが中華系であることは実は物語内で明言されていません。真剣に付き合っている二人は物語の型どおりに家族からの反対にあうのですが、最終的には双方の家族が結婚を許します。
にもかかわらず、互いを隔てる見えない壁を意識してしまった二人は別れる決心をして物語は幕を閉じます。これはこれで嘘っぽくない、現実にありうる話であり、その点を評価する人が多かったからこそ、インドネシア映画祭でも受賞したのでしょう。しかし、先述したローラの種族を明言しなかったことも含め、2023年の現在から振り返ると、『三つの心』は何とも奥歯にものが挟まったような歯切れの悪い作品であるように思えてなりません。とりわけ、親同士が本音トークをぶちまけながらも後味が実に素晴らしい『コンシー・ラヤ』を観てしまった後では、パンチに欠けた作品であることは否めません。
マレーシア映画に疎い私が、『コンシー・ラヤ』やヤスミン・アフマド作品の一部をもってマレーシア映画の全体像や傾向を論じるのはやや軽率かもしれませんが、インドネシア映画において異種族異宗教の対立を結婚や恋愛を通して描いたコメディ作品が決して多くはないことは確かなように思えます。この点につき、私よりも最新のインドネシア映画を沢山観ている横山さんのご意見をお聞きしたいところです。
ところで、マレーシアとインドネシア、共に異種族異宗教間の恋愛や結婚を描いた作品の傾向でなぜこのような相違が生じるのでしょうか?
ひとつの仮説としては、マレーシアでは1969年の民族衝突事件がすでに歴史に属する「過去」になりつつあることです。『コンシー・ラヤ』における本音ぶちまけトークがコメディとして受容される土壌が、互いに笑って受け流せる素地があるのではないか。
また、より広い背景を考えるならば、次のように言えるかもしれません。1969年の民族衝突事件以後、政治面においては民族間での権力分配という方針、かつ互いの民族内問題には外部から干渉しない方針がそれぞれ定まった。これは同じ国に住む隣人でありながら、とりわけマレー人と華人が深く交わろうとしない不干渉主義も生み出した一方で、双方が決定的な衝突に至る事態を防ぐことにも繋がった。ただ、近年は長年与党の座にあった統一マレー国民組織(UMNO)から野党連合への政権交代が起きたように、マレーシア人有権者の国民意識に変化が生じつつある。不干渉主義からの脱却が少しずつ図られ始めた結果が、『コンシー・ラヤ』のような、笑って泣けてハッピーになれるコメディに結実したのではないか。
この仮説の妥当性は、マレーシア映画の専門家に聞いてみないと、実際のところ判断できないと私は思いますが、ではインドネシア映画で類似のコメディがほとんど見当たらないのはなぜなのでしょうか?
この疑問に対するシンプルな答えはおそらく、インドネシア人の集団意識において、1998年5月暴動はいまだ「過去」にはなっていないことが一つの要因であると思われます。横山さんが『よりどりインドネシア』第140号の別連載「いんどねしあ風土記」(https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/27217/)で取り上げたジャカルタ大暴動の実態、とりわけ華人女性に対する暴行や強姦は、表向き社会で大っぴらに広く関心を集める問題ではなくなりつつあります。しかし、人々が完全に忘れ去ったというわけでもなく、映画制作者も観客も、異種族異宗教婚の対立と衝突の物語を純粋なコメディとして楽しむにはまだ心の準備ができていないのかもしれません。
これは例によって私の深読みしすぎ、穿った見方なのかもしれません。ただ、『コンシー・ラヤ』のあの本音ぶちまけトークをそのままの形でインドネシアにてリメイクできるかといえば、イエスと言い切る自信が正直なところ私にはないのです。そのくらい、インドネシアにおける種族間宗教間の対立は敏感な問題であり、コメディに昇華させるには制作者の力量が正面から問われるのではないかと思います。
異種族異宗教間を隔てる壁が今も厳然としてある現実は、何も華人とムスリムのカップルが主人公の作品が少ないことだけではなく、たとえばメラネシア系のパプア人と非パプア人のカップルが主人公の作品はほとんど見当たらないことなどにも反映しているかもしれません。これは、「多様性の中の統一」を国是として掲げながらも、実際には多様性よりも統一を優先してきたスハルト政権下の文化政策の基本方針が、今なお影響力を保持していることの証左なのでしょうか。
逆に言えば、こうしたインドネシア映画の弱点は、今後インドネシアの民主主義がより成熟に向かうなかで克服されていく可能性も大いにありえます。その点で作品の詳しい紹介は省略して軽く触れておきたいのは、本連載の第53信「華人コメディの傑作『となりの店をチェックしろ』」(https://yoridori-indonesia.publishers.fm/article/26766/)で言及した続編『となりの店をチェックしろ2』(以下『となり2』)のラストでの描写です。
『となり2』の主題はタイトルとは大いに異なり、主人公エルウィンの家業継承問題ではありません。エルウィンと恋人ナタリーの結婚式を仕切りたがるナタリーの母アグネスの過干渉、そしてエルウィンの兄ヨハンと妻アユの子供を持つか否かの選択に焦点が当たっています。ジャカルタの下町を主な舞台にした庶民派コメディだった1作目と比べると、多彩な脇役たちの演技アンサンブルが少し減り、ややシリアス寄りのコメディです。が、そのなかでも私が特に胸を突かれたのは,ラスト間近でエルウィンの父アフックが兄ヨハンと妻アユの結婚を拒絶した過去を振り返る場面でした。以下台詞を採録してみます。
スハルト政権期に頻繁に聞かれ公的にも使用された「プリブミ」という語は、原住民の意味ですが、これは常に「ノン・プリブミ」つまり非原住民という概念と対でした。この場合の「ノン・プリブミ」とは華僑・華人を指し、両者間の経済格差を指摘する際には必ず使われた言葉でした。華人間の格差を無視し、むしろ両者間の分断を強調しすぎる文脈で使われることが多かったためか、ジョコウィ政権となってからは政府の公式文書で「プリブミ」「ノン・プリブミ」という語は使われなくなりました。
そのような事実を知っていたので、思わぬ形で映画の登場人物の口から「プリブミ」という単語が出てきたのは私にとって驚きでしたし、それを実際に華人でもあるチュウ・キンワーが発することには重い意味が含まれていると解釈すべきでしょう。付言するなら、チョウ自身が実生活ではイスラームに改宗し、マレー人の配偶者がいることを想起すべきかもしれませんし、あるいは『コンシー・ラヤ』における偏見丸出しの頑固な父親ロン・フェンを彼が演じている事実も想起すべきかもしれません。
確かなことは、『コンシー・ラヤ』も『となり2』もアプローチの仕方は異なりながらも、共に観客に対して寛容を呼びかけるメッセージを備えている点です。自らの過ちを認め、相手の非を許し、他者を受け入れること。家族と他者を信頼すること。そして、それをイデオロギーとして押し付けるような形ではなく、観客の共感を誘う形で制作者が巧みに語っていること。まぎれもなく二つの作品に共通する美点です。
私の個人的な好みとしては、ドタバタコメディで始まり、最後はご都合主義で丸く収めてしまう『コンシー・ラヤ』に軍配を上げたいのですが、インドネシア映画が正面から描くことを回避してきた主題にちゃんと触れている『となり2』もなかなか捨てがたい作品です。両作品で重要な登場人物を演じているチュウ・キンワーならどちらをより好むのか、聞いてみたいものですね。
以上、異種族異宗教婚をテーマとしたマレーシア映画とインドネシア映画の比較考察は一旦ここまでとしましょう。インドネシア映画産業がこのテーマにやや及び腰なのは若干残念ではあるのですが、あるいは才人エルネスト・プラカサなら今後の監督作品でより大胆な表現に踏み込む可能性があると期待はしています。インドネシア版『コンシー・ラヤ』が、本当のコンシー・ラヤが訪れる2029年よりも前に制作公開される未来が来ますように!
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さて、ここから先はいわゆる一般的な結婚コメディものについて、数回に分けて書いてみようと思います。「一般的な結婚コメディ」というのはだいぶ幅の広い曖昧な表現ですが、異種族・異宗教のはざまで生まれる喜怒哀楽を主なテーマとはしない、広義の結婚コメディと一応定義します。大別するなら、数々のトラブルを乗り越えて結婚に至るまでを描く作品と、結婚後のドタバタを主に描く作品に分けられそうです。
このジャンルの古い作品としては1985年の『追いつ追われつ』(Kejarlah Daku Kau Kutangkap)が挙げられます。日本ではNHK教育テレビのアジア映画劇場や衛星放送などで放映されたことがあり、2013年から5年間西ジャワ州副知事を務めた俳優デディ・ミズワルの若き日の活躍ぶりを楽しめる、スマートな喜劇です。男女の見栄と意地の張り合いが物語の推進力となり、時折インド映画のようなミュージカル場面もあったりして、今見てもなかなか面白い作品ではないかと思います。
『追いつ追われつ』からはだいぶ時間が飛びますが、改革(レフォルマシ)時代以降のインドネシア映画で結婚コメディとして最もヒットした作品と言えば、シリーズ第4作まで制作された『結婚しちゃった』(Get Married)シリーズでしょうか。私がちゃんと見たのはシリーズ1作目と2作目までですが、異種族・異宗教をネタにはしていません。超格差社会ジャカルタの庶民層に焦点を当てつつ、上層との間に横たわる様々な格差をコメディとして手堅くまとめ、終盤の大乱闘からハッピーエンドに至るまでの展開が見事な、今や売れっ子監督として引っ張り凧となったハヌン・ブラマンティヨ監督の出世作です。1作目は結婚するまで、2作目と3作目は結婚後の妊娠と三つ子の子育て、そして4作目は娘が韓国人と結婚すると宣言して始まるドタバタとなっています。3作目と4作目は、コメディからホラー、さらに海外ロケがメインのラブロマンスまで、幅広いジャンルを次々と手掛けるモンティ・ティワ監督が演出しています。
『結婚しちゃった』の場合、最近よくあるパターンの、当初から二部作や三部作あるいはテレビシリーズ前提で制作される諸作品とは異なり、1作ごとの人気と興行成績に支えられてのシリーズ化でした。その意味では、シリーズの一貫した統一感は薄いものの、一作毎に勢いがあって登場人物に魅力があることは間違いありません。1作目から4作目まで一度イッキ見してみたいところですね。横山さんはすでにどれかご覧になっているでしょうか。
こうやって作品を順々に紹介していくとキリがないので、最新の結婚コメディを今回は取り上げましょうか。ただし、劇場映画ではなく、最近インドネシアでも会員数を伸ばしているアマゾン・プライムビデオの配信作品です。『母象』(Induk Gajah)というシリーズで、1エピソードあたり40分前後のフォーマット、全8エピソードとなっています。全部を最初から最後まで見ると、主題歌やクレジットを除いても、5時間くらいにはなりそうです。
なお、インドネシアで配信されているアマゾン・プライムビデオ作品を日本に居ながらにして見る方法が私には長らくよくわかりませんでした。が、VPNアプリでインドネシアのサーバーに接続して作品を発見、その後VPNを切断してもプライム印のついた作品なら履歴が残って引き続き観られることが、今回『母象』を通して視聴したことでようやくわかりました。逆に言えば、プライム印のない作品、例えば『ナナ』などはタイトル検索以上には進めない仕組みになっており、非常に残念なのですが、これは現時点ではどうしようもないようです。
閑話休題。さて、肝心の『母象』ですが、見どころはズバリ以下3つあるので、ひとつひとつ解説していきましょう。
見どころその1は、ムスリムが多数派のインドネシアにおいては珍しいことに、本作の主人公である母娘がバタック人プロテスタント教徒という基本設定が笑いの根源にある点です。そう、私も横山さんも、ついでに別連載執筆者の石川礼子さんも好きな家族コメディ『ゾクゾクするけどいい気分』(Ngeri-Ngeri Sedap、以下『ゾクゾク』)でも描かれた、あの強気一直線(?)のバタック人社会が舞台なのです。母親役ウリは『ゾクゾク』でも好演を見せてくれた年輩のティカ・パンガベアン、また脇役の何人かは『ゾクゾク』でも見かけたキャストだったりします。以下の予告編をチラ見するだけでも、もう笑いが止まりません。
「シュウマイ屋のあんたが私の娘にシュウマイ売って、それを娘が食べて太って、結婚できなくなったらどうしてくれるの?!」と本気でシュウマイ屋に超ストレートにかちこむバタックママの迫力がサイコーですし、たじたじのシュウマイ屋がひたすら哀れでなりません。
自分の娘イラに向かって「あんたのお腹を見なさい! まるで象の腹だよ!」等々、婉曲表現抜きにズバズバ言いまくる母ウリのおかしいことと言ったら、そして実際にそういうバタックママが存在しうる現実を思い浮かべると、もうそれだけで可笑しいのです。愛娘イラを何としても早く結婚させるためなら、苦言直言は当たり前、お見合いは早退させてでもアレンジするし、食べたがりの娘の体重管理は基本中の基本。漫画みたいなモーレツママぶりに娘イラが辟易する様には同情すらしたくなります。もちろんこれは誇張した表現には違いないのですが、妙に説得力というかリアリティも感じられるのが、これまた絶妙におかしくもあります。
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