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[2024/07/23] ウォノソボライフ(76):カトリック婦人会(WKRI)100年の歩み(神道有子)

~『よりどりインドネシア』第170号(2024年7月23日発行)所収~

今年は大統領選挙があり、また再来月あたりには地方首長選挙も控えている、選挙の年、変化の年です。5年に一度であるため、民主化以降のインドネシアでは4のつく年、そして9のつく年は選挙の年というサイクルになっています。

このインドネシアの選挙サイクルと同じサイクルで役員の交代をしている全国規模の組織があります。それがカトリック教会員の女性で構成された、Wanita Katolik Republik Indonesia (インドネシア共和国カトリック婦人会)、通称WKRIです。

そのWKRIが、今年結成100周年を迎えました。以前、ウォノソボのNU(Nahdlatul Ulama)が一世紀を迎えた、という話を紹介したことがありましたが、独立以前の民族意識の高まった時代に立ち上げられた民間組織が誕生一世紀を迎える時期にきているようです。

記念すべき100周年ということで、全国の支部がそれぞれ式典を開き、祝う様子が報告されています。せっかくなので、このWKRIの活動内容や沿革、またインドネシアにおけるカトリック教会の繋がりについて、ご紹介したいと思います。


カトリックの女性として

それぞれの教会に所属する信徒のなかで、主に既婚の婦人たちで構成されるWKRIは、青を貴重にした何種かの制服を定めています。揃いの青いシャツと紺色のスーツ、青い模様のバティックシャツ、青いポロシャツなど・・・。青はロゴマークでもベースの色とされており、どうやらWKRIのテーマカラーのようです。

ロゴマークの青には、母の祈り、一途さ、などの意味が込められているそうです。おそらく、これは、カトリックのなかで母を象徴する存在である聖母マリアが、青い衣服を常にまとって描かれていることからきているのだと思います。青は聖母マリアであり、聖母マリアはカトリック女性の目指すべき規範の姿でもあります。

出典:https://dppwkri.org/
出典:https://dppwkri.org/

それぞれの教会ごとにWKRIの支部があり、所属する教会の行事を取り仕切ったり、食事の用意をしたりしています。また、女性向けセミナーや勉強会も開催しており、近いところでは性暴力や子宮頚がんといった、女性が知っておかねばならないテーマでの講演会が予定されています。その他、植樹、地域の清掃といった慈善活動も行なっています。

WKRIは、教会の教えに沿って生活の質の向上、社会平等の実現、そしてジェンダー的対等さの獲得を基本理念に掲げています。一方で、聖書で説かれるような女性の役割、家の中で夫を頭としそれに従う妻としての責任も全うするべきとしています。これは上下関係ではなく、それぞれ異なる役割を全うして神のもと同じ立場にあると解釈されることが多いようです。男性と全く同じことをするべきだ、という方向の平等とは異なります。

また、「産めよ増えよ地に満ちよ」という教えから、家族を持つこと、子供を持つことを是としています。WKRIが既婚女性の集まりであり、聖母マリアのテーマカラーにあやかっていることからもそれは見てとれます。女性の自立も目指していますが、結婚せずに一人で生きるという意味のものではありません。

では、そもそもWKRIの目指したもの、その原点とはなんだったのでしょうか?話は100年前に遡ります・・・。

女性労働者のために

WKRIの発起人は、ラデン・アユ・マリア・スラストゥリ・スジャディ・ダルマスプトラ・サスラニンラット(Raden Ayu Maria Soelastri Soejadi Darmasepoetra Sasraningrat)です。恐ろしく長い名前は、貴族特有の称号と父の名前と夫の名前が入っているためで、通称は、マリア・スラストゥリと呼ばれていたようです。

彼女の父方祖父はパクアラマン王国(ジョグジャカルタの王国から分割した王国)のパクアラマン三世で、母方の血筋ではディポヌゴロ王子のひ孫に当たります。ジャワ王家の血をひく家庭で1898年4月22日、第五子の三女として生まれました。後に、姉がインドネシア教育の父と呼ばれるキ・ハジャル・デワントロ(Ki Hajar Dewantara)と結婚したため、キ・ハジャル・デワントロの義理の妹でもあります。

マリア・スラストゥリ
出典:https://wkridpdjateng.wordpress.com/2012/08/23/profil-r-ay-maria-soelastri-soejadi-darmasepoetra-sasraningrat/comment-page-1/

マリア・スラストゥリの父は古代ジャワ文学に精通しており、あるとき、中部ジャワに派遣されてきたカトリックの神父と知り合います。ジャワの文学や文化慣習を学ぶためにその神父がたびたび父の元を訪れるようになり、他の家族とも親しくなっていきました。

1906年、その神父の薦めと母の賛成もあり、マリア・スラストゥリはジョグジャのミッション系学校へ入学しました。貴族出身でありながら、ナショナリストで貧しい人を気にかける人格へ育っていったといいます。1914年、16歳のときに獣医であったスジャディ・ダルマスプトラと結婚しました。

やがて、マリア・スラストゥリは、身の回りのタバコ工場や砂糖工場で働く女性労働者たちの置かれた環境を知るようになり、心を痛めます。当時は、女性には才覚やスキルはないものと見られており、成長の伸び代なども期待されていませんでした。女性を表す “Konco Wingking” 裏方の人)という言葉が示す通り、台所や水回りといった家の裏方仕事に従事するだけの存在であり、その労働には特別な価値はないとされ、そのため、女性労働者は低賃金で会社の都合のよいように使われていたのです。

ミッションスクールの同級生たちの協力や神父の助言を受け、マリア・スラストゥリは1924年6月24日、Poesara Wanita Katholik(カトリック女性の墓場)という団体を立ち上げます。初代リーダーはマリア・スラストゥリの実の妹になりました。活動目的は、女性労働者たちの文盲を改善し、自立支援をすること、また労働者としての自らの権利を自覚させ、不当な搾取に気付けるようにすることでした。健康や衛生についての啓蒙もしたそうです。

また、当時工場主たちがオランダ人で、偶然にも同じカトリックであったため、話し合いの場を設けることにも成功したと語っています。労働者の大半が女性であり、待遇を改善するために新たなルールを作るなど成果をあげました。さらにそれを受け、他のオランダ人経営者にも協力を呼びかけていきました。

15~20人の会員たちで始めた活動でしたが、徐々に賛同者が増えていきます。1934年には名称をPangreh Ageng Wanita Katholikと改名しました。カトリック女性大委員会という意味です。1938年には機関紙も発行し、会員間のコミュニケーションや活動の紹介を行っていました。日本軍政期に入ると、全ての結社の活動が禁止され、カトリック女性大委員会も日本軍が定めた婦人会へと吸収されます。

独立宣言後、ソロで開かれたカトリック教徒の集会において、インドネシア人で初の司教となったアルベルトゥス・スギヤプラノト(Albertus Soegijapranata)がカトリック女性の組織を活動再開するよう促しました。それを受け、1952年、新たにWKRIの名称で再結成、ロゴマークを決め、守護聖人を聖母マリアの母親であるアンナに定め、以前はジャワ語で定められていた基本理念などをインドネシア語で作成し直しました。そして法人化し、今の形に繋がる基礎となったのです。

このあたりから、女性だけでなく、子どもたちの教育や健康衛生にも着目していきます。青少年の教育に主軸を置いた黄十字架財団(Yayasan Salib Kuning)、家族計画や幼児教育などにフォーカスしたダルマイブ財団(Yayasan Dharma Ibu)などが設立され、各地に幼稚園やプレ幼稚園などの教育機関を次々に建てていきました。

また、インドネシア国内外の他の女性団体とも連携していきます。KOWANI(Kongres Wanita Indonesia: インドネシア女性会)にはWKRIも含め87の女性団体が所属していますし、また、国際組織であるWUCWO(World Union of Catholic Women’s Organisations: 世界カトリック女性連合)とも繋がっています。

マリア・スラストゥリの時代から100年を経て、彼女の構想は、より大きく広く成長することとなりました。世代を超えて、まだまだ受け継がれていくのでしょう。

1975年9月8日、マリア・スラストゥリはスマランで亡くなりました。現在は、アンバラワ・クルップ・マリア洞(Goa Maria Kerep Ambarawa)に埋葬されています。

マリア洞というのは、インドネシア各地にある聖母マリアと洞窟を模った祈りの場所の通称であり、5月や10月といった巡礼の月には特に人が集まります。厳かで穏やかな地で、マリア・スラストゥリは親族とともに眠りについています。

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